先日聴いたカンブルラン/読響のヒロシマ・声なき声を聴きながら、
ずっと頭の中をぐるぐると駆け巡っていた文章があります。

原民喜の『夏の花』。

郷里に帰省中だった作者は広島にて被爆。その経験をもとに綴られたのがこの「夏の花」です。
原爆の被害を克明に描いた文学としては筆頭に挙げられるとのこと。

この中の一節を紹介します。

・・・これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。苦悶の一瞬足掻いて硬直したらしい肢体は一種のしいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中に痙攣の図案が感じられる。だが、さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。国泰寺の大きなも根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残っている浅野図書館は屍体収容所となっていた。路はまだ処々で煙り、死臭に満ちている。川を越すたびに、橋が墜ちていないのを意外に思った。この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が
わしいようだ。・・・

・・・と、この後に片仮名による詩が続くのですが、
あの日サントリーホールに刻まれた音楽は、このような凄惨な光景を音楽で体現したということに留まらず、過去を見つめて今の世界を生き抜く手がかりを見つける、いわば温故知新的なニュアンスを含んだものであったと言えると思います。原民喜が「書き残さねばならない」と、『夏の花』を書いたのと同様、細川氏もきっと作曲家としての使命感に駆り立てられたのではないでしょうか。
東日本大震災という国家的な苦難を経た日本人が今、半世紀前に体験した苦難を振り返る。それは大変な辛さも伴うものでしたが、それでもこの過去は忘れてはいけない―ぼんやりながらも、そのような思いを抱かせてくれた公演でした。