2014/10/2 新国立劇場「パルジファル」
@新国立劇場オペラパレス


ヴァーグナー:舞台神聖祝典劇「パルジファル」(新制作)

 

演出:ハリー・クプファー

アムフォルタス:エギルス・シリンス

ティトゥレル:長谷川顯

グルネマンツ:ジョン・トムリンソン

パルジファル:クリスティアン・フランツ

クリングゾル:ロバート・ボーク

クンドリー:エヴェリン・ヘルリツィウス

第1・第2の聖杯騎士:村上公太、北川辰彦

4人の小姓:九嶋香奈枝、國光ともこ、鈴木准、小原啓楼

花の乙女たち:三宅理恵、鵜木絵里、小野美咲、針生美智子、小林沙羅、増田弥生

アルトソロ:池田香織

合唱:新国立劇場合唱団

合唱指揮:三澤洋史

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

指揮・芸術監督:飯守泰次郎


歴史的上演だった。自分の人生の中で忘れ難い体験が、また一つ増えた。

 

7月の「ホフマン物語」でオペラとは何なのかを悟り、この世界にぐいと引き込まれたのだが、今回の「パルジファル」によって、とうとう自分はこの世界から抜け出せなくなった。

 

圧倒的に濃縮された時間であり、あまりに構成要素が多すぎて、またそのどれもが信じられない高次元に達しているので、どこから書いていいのか皆目見当もつかないのだが・・・。とりあえず、詳細は数多いヴァグネリアン諸賢にお任せするとして、ヴァーグナー鑑賞歴の甚だ浅い自分には今回感じ取ったことを書き綴るくらいが、どうやら今の自分に出来る精一杯のようだ。

 

幕が上がり、舞台の奥から光の河がおだやかに流れてきた瞬間からすでに異世界だった。事前にHP上に掲載されていた舞台機構の説明を読んで、大量のLEDによる装置だと知っているのに、なぜこれほどまで神々しいのか。神聖さとは最も遠い位置にあると思われる機械の集合体が、演出家により息を吹き込まれ、一気に俗世を超越した不可侵性を帯びうることに単純に感動してしまった。

(なお本番は1階席だったが、4階最前列で見学したGPでは、河のラインが明確に見てとれ、結果として演出のコンセプトがより明解に伝わってきた)

 

冒頭、光の道上の各キャスト(後方にいるのが仏僧たち)
冒頭、光の道上の各キャスト(後方にいるのが仏僧たち)

 

今回のクプファーによる新演出でまず話題となったのが上述の「光の道」と、聖槍の象徴たる可動式のメッサー(ナイフ)だったが、演出のコンセプトから言えば、真っ先に着目すべきは「光の道」に配置された黙役の仏僧たちではないか。「パルジファル」の音楽それ自体が東洋的哲学を内包し、最終的には東西の壁を超えた普遍的な救済が訪れる、というものであるが、今回クプファーが仏僧たちを用いて表そうとしたのは、まさにその理念の可視化であろう。

日本へのリップサーヴィスではないということは、仏僧たちの動きや位置関係が場面ごと、更には各登場人物ごとに至るまで細かく描き分けられていることからも自明だ。例えば、第1幕冒頭・グルネマンツらが聖域で王の到着を待っている場面では仏僧たちは舞台奥にじっと佇んでいる。これにより、「舞台手前=聖域」「舞台後方=異教の地」という描き分けが成され、観客は舞台の距離以上の空間的・精神的距離を認識するのである。

この他にも仏僧らは多くの場面でさりげなく役割を果たすが、やはり終幕がもっとも重要だろう。救済者となって聖域に帰還したパルジファルは聖杯の守護者の継承を宣言するのだが、この時舞台後方の仏僧はパルジファルやグルネマンツ、クンドリーにまで仏衣を羽織らせる。そして彼らは、舞台奥へ向かい「光の道」を歩んでいくのだが、これは単純な東西宗教観の和解を意味しないようだ。パルジファルの仏衣の着方は本来の着方とは全く異なっているし、道を歩む騎士団の面々は這うようにして苦しげに上っていく。《お互いを理解し共に歩もうとしても、その過程は苦しみや欺瞞を伴う》と、「パルジファル」の重要なテーマである「共苦」の困難さをクプファーがわれわれに語りかけているようにも思える。これは世の東西を問わず共通する難題であり、2014年の日本でこのメッセージをクプファーが投げかけたことを、自分は重く受け止めたい。

演出上のその他の要素についてはあまり触れずにおくが、一つだけ。舞台上ではダンサーを用い、歌い手はピット内に配した花の乙女たちの場面はきわめて見事だった。ダンサーたちのなまめかしい足がパルジファルの周囲を取り囲み、花弁の集合のように見せることで、彼女らが花の精霊であるという事実を観客に冷静に認識させつつ妖艶さを表現していた。

 

アムフォルタス(中央右寄り)を乗せるメッサー(ナイフ)アムフォルタス(中央右寄り)を乗せるメッサー(ナイフ)

 

演出に関してまず述べたが、ヴァーグナーの音楽あってこその舞台。音楽面の充実に触れずにおくわけには、当然いくまい。

超一流の歌い手、それも各登場人物に合う人々を集結した今回の歌手陣はほとんど隙がなかった。

まずは1幕の長大な語りで聴かせた重鎮サー・ジョン・トムリンソン。流石に加齢ゆえのピッチの狂いはあったが、そんなことは彼の表現力の前では些細な問題に思えた。これだけ味わい、実感のこもった深い語りを聴かせられるグルネマンツ歌いがいま、世界中のどこにいるだろう!トムリンソン=グルネマンツであった。

そして2幕をはじめとしてクンドリーの官能と苦悩を描き抜いたエヴェリン・ヘルリツィウス!身体的にも要求の高い役柄であるが、完璧の出来だった。文句なしのブラヴォー!

春には理知的なヴォータンを聴かせたエギルス・シリンスによるアムフォルタス他、全キャストが総じて高水準、聖杯の合唱などで活躍する新国立劇場合唱団も素晴らしかった。

そして、飯守泰次郎カペルマイスターと東京フィルに心からの賛辞と感謝を送りたい。この長大かつ複雑極まりない作品、指揮し通すだけでも並大抵の指揮者では務まらないはず。飯守氏はヒューマンな感興を常に湛え、尽きせぬヴァーグナー愛を以って渾身の指揮を展開した。東京フィルも、第2幕でクンドリーがパルジファルに接吻し、パルジファルがアムフォルタスの傷を解する箇所でややバラけた以外は大きな事故もなく、充分にヴァーグナーの神秘的かつ雄大な響きを堪能させてくれた。これで初日だったので、千秋楽にはオーケストラもかなりの水準に達することだろう。

 

全曲が終わり、飯守氏がタクトを下ろすと地響きのような喝采が沸き起こった。自分は海外オペラの経験にも当然乏しいので、今回のカーテンコールでの熱狂を適切な物差しを以って伝えられないのが歯痒いが、ヴェテランのオペラ愛好家の皆さんに聞いてみたところ、海外団体でもこれほどの熱狂はない、との言葉が返ってきた。事実、幕が完全に閉まっても、客電が灯っても暫く喝采は止まず、歴史的上演を達成したキャストへの労いは続いた。

 

冒頭の繰り返しになるが、一生忘れ得ぬ体験だった。10/2の新国立劇場オペラパレスに響いたのは、苦悩と後悔を常に抱える誰しもに共通する「普遍的な」メッセージだったに違いない。