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March 21, 2015

2015/3/20 ラザレフ/日フィルのショスタコーヴィチ11番「1905年」

2015/3/20
日本フィルハーモニー交響楽団 第668回東京定期演奏会
@サントリーホール

ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番
~ソリスト・アンコール~
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番より 第3楽章
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」


ピアノ:イヴァン・ルーディン
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:木野雅之
指揮:アレクサンドル・ラザレフ

いきなり当日の感想から外れるが、昨年このコンビで聴いたショスタコーヴィチの「第4番」について軽く触れておきたい。

コンドラシン直伝のスコアを受け継いだラザレフの入魂の熱演で、音楽の友のランキングにも食い込む絶賛を博した演奏だったのだが、個人的には最後まで疑問符が取れなかった。何故か?恐らく原因は、この曲の初生がインバル/都響だったことだろう。膨大な要素がおかまいなしにに錯綜し、頻繁かつ唐突な楽想の変化が連続する難曲において、インバルはいつも通り何も気負わずにそれぞれの要素を緻密に仕上げた。その結果として曲の凸凹は容赦なく明らかにされ、第4番の先鋭性をひしひしと感じることとなった。あるブロガーの方が『エイゼンシュタインのモンタージュ技法のように』という優れた表現をなさっていたが、まさにその通りである。一見相反する要素を並列することで、それらの間に独自の意味が出現するのだ。その点ラザレフの演奏は、第4番を激烈で悲劇的な色調で覆っていた。1楽章の凄まじいフガートの後も音楽の火照りは冷めず、全体的に攻撃的な演奏だった。怒号の迫力には圧倒されたものの、第4番ならではの特徴が薄められてしまったように感じて納得がいかなかったのだ。

そしてやっと本題。今回聴いたのは第11番「1905年」である。会場でどなたかに教えていただいたのだが、なんと前半のピアノ協奏曲第2番と交響曲は作品番号が連続している。躁と鬱、と単純にカテゴライズしては身も蓋も無いが、ショスタコーヴィチという作曲家の多面性に改めて驚嘆した次第。ラザレフもこれを狙ったのだろうか?肝心の演奏はこのコンビの快心の一撃と言える素晴らしさで、第2楽章でどれだけ金管が咆哮し、打楽器が乱打されても負けない木管と弦の強靭さに打ちのめされた。特に弦は日フィルで聴いた事のない(これまでラザレフが振った時でさえ今回ほどではなかった!)厚みで、4楽章の刻みではぐいぐいとうねりながら邁進していた。そしてラザレフの解釈は、第11番では相性の良さを発揮した。第11番は第4番より曲の構成という点では遥かにシンプルで、ガボン率いるデモ隊の悲劇という歴史的事件の追憶としてのモニュメンタルな側面が大きい。ラザレフの紡ぐ音はそれに相応しい真摯さで、第2楽章の銃殺場面はテンポを落としてこれでもかと抉るような音を引き出していたし、第3楽章の有名な「ワルシャワ労働歌」の引用では殆ど聴こえない弱音で奏された。遅く決然と入った第4楽章では主部での急速なテンポ転換が効果的。なお、ラザレフは先述の第3楽章ではほぼ180°客席を向きながら指揮していた。咳のやまない聴衆に睨みを利かす以上の凄みがあったように思えた。

順番が前後するが、前半のピアノ協奏曲第2番では軽妙でユーモラスなショスタコーヴィチ像が楽しめた。ソロを弾いたルーディンは第2楽章のコケティッシュさ、両端楽章の痛快なリズムともに文句無く、ラザレフ指揮のオケも弾むように躍動感あるバックでルーディンに応える。素晴らしい演奏だったことには間違いないのだが、このイヴァン・ルーディンというピアニストにはどこか血も涙も無いピアノ・マシーンのような怖さを感じる。アンコールでまさかの「戦争ソナタ」を表情一つ変えず弾きこなし、終結音を叩き付けた瞬間体操選手の決めポーズのごとく椅子から彼が立ち上がった瞬間、その怖さは確信へと変わった(笑)



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takupon68 at 09:22│Comments(0)TrackBack(0)公演評 

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