2015/8/23
サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015
ザ・プロデューサー・シリーズ 長木誠司がひらく
レクイエム~詩と声と命の果つるところ
@サントリーホール

ツィンマーマン: ある若き詩人のためのレクイエム(日本初演)

ナレーター:長谷川初範、塩田泰久
ソプラノ:森川栄子
バリトン:大沼徹
ジャズコンボ:スガダイロー・クインテット
ピアノ:スガダイロー
サクソフォン:吉田隆一
トランペット:類家心平
ベース:東保光
ドラムス:服部マサツグ
新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨岡恭平)
エレクトロニクス:有馬純寿
管弦楽:東京都交響楽団
指揮:大野和士

サントリー芸術財団が真夏におくる現代音楽の祭典・サントリーサマーフェスティバル。毎年意欲的な試みが続いているが、今年はベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」の日本初演が大きな目玉企画となった。4月に都響音楽監督に就任した大野和士を筆頭に、オール日本人キャストによる初演というのも快挙だ。

近年メッツマッハー/新日フィルの優れた演奏により、彼の作品の生演奏を継続的に聴くことができたが、その異様かつ厳格な作品世界は聴く者に強烈な印象を与える。だが、この「ある若き詩人のためのレクイエム」は彼の作品の中でも最大規模に拡大された超大作と言っていい。死の年に作曲された「フォトプトシス」もあるが、最晩年のツィンマーマンが渾身の力で打ち上げた巨砲がこの「レクイエム」なのだ。
全体の構成・編成がまず凄い。アイスキュロスに始まりコンラート・バイヤーまで、 古今東西の詩人・政治家・音楽家・文学者・哲学者の言葉が次々にコラージュされる。ステージ上の語り手はドイツ基本法と毛沢東語録を担当し、ホールを取り囲むように設置された数十のスピーカー群、合唱により他の言葉が語られる。ある物は朗読され、またある物はテープ録音が流される。ゲッベルス、ヒトラー、ドゥプチェクなど、歴史的演説は実際の音源が生々しく使用される。音楽の引用では、ミヨーのバレエ音楽「世界の創造」、ベートーヴェン「第9」終楽章、ヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」より愛の死、ビートルズ「ヘイ・ジュード」がスピーカーから聴こえて来る。
ヴァイオリン、ヴィオラといった高弦部を排した大オーケストラは約65分の演奏時間のうち、最初の40分ほどはトゥッティで登場することはない。突如轟然と「レクイエム・エテルナム」を叫ぶ合唱をホルンがリードしたり、通奏低音的に低弦が下支えしたりといった使われ方である。オーケストラの不在を音響的に代行するのは、有馬純寿さん率いるチームが操作するエレクトロニクス。一階中央客席の大部分を潰し、ツィンマーマンの作成した電子音響のテープをホールに無理なく響かせていた。よって指揮者・大野さんの仕事は普段のオーケストラ指揮とは幾分異なる形になる。指揮台の隣にはMacBookが置かれており、その画面に表示される時間経過が作品の進行を示している(この時計はある箇所で表示が止まったり、また再開したりする)。大野さんはそれに従い、RB・LB・センターブロック後方に位置する合唱団に指示を出していった。合唱団の各分隊にはそれぞれ副指揮者がおり、彼らが大野さんの指揮をモニターでコピーしながら音楽が進行する形であった。

構成・編成について少し書いただけでかなりの字数を使ってしまった。ここから演奏について触れていきたい。
ヨーロッパ以外ではニューヨークのカーネギーホールに続き二箇所目という稀少な大作の初演にあたり、聴衆には十全な啓蒙が行われていたように思う。プレ企画として出演者による講演会が東大駒場キャンパスで行われたほか、公式ウェブサイト、SNSでの特集にも力が入れられていた。更には公演当日、正味65分の演奏の前に大野さん×長木さんによるプレトークも開催。プロデュース企画として、万全な準備を以って上演したいという長木さんの熱意が伝わった。
そうして繰り広げられた演奏は、予想を上回る情報量と深く重いメッセージを我々に提起するものだった。あまりの重さに、公演から数日は頭がずっと熱を帯びて明らかに体調が悪かったほどだ。 
一つの作品が持つスケールとしてはあまりに破天荒な作品であると同時に、緻密な設計を以って構築されており、各要素に確かな説得力を感じた。これは新鮮な驚きであった。異端として語られがちなツィンマーマンであるが、彼もまたドイツ・オーストリア音楽の流れを引く作曲家であるということだ。数々の引用ではドイツの大作曲家が登場するし、オーケストラパートでもそれを思わせる箇所がある。例えば終盤2回グロテスクに現れる「愛の救済の動機」(ヴァーグナー『神々の黄昏』)は、レクイエムの救済を嘲笑うかのようだし、ハンマー3連打は明らかにベルク「3つの管弦楽曲」の影を感じさせ、更にはベルクが着想を得たと思われるマーラー「悲劇的」に辿り着く。ツィンマーマンはベルクを尊敬していたようで、彼の絶筆となった「 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」という作品においても、ベルクがやはり絶筆の「ヴァイオリン協奏曲」で引用したのと同じJ. S. バッハのコラールを引用している。(それも金管楽器による最強奏で!)
テープから流れる異なる言葉のコラージュにおいても、意図的な関連性を試みている箇所がいくつもある。これについては公式プログラムの曲目解説に掲載されているので、割愛したい。
このレクイエムでは、凄まじい情報量の言葉の波に呑まれるという「言語体験」こそが重要なのではないか。登場する言葉全てが意味を持っていながら、聴き手はそのどれも正確に追うことができない。全てが聞かれるべきだが、どれも聞かれる事はない—この相反性こそツィンマーマンの狙いであり、現代の情報過多な社会をも暗示しているのではないか。これは膨大な言葉が瞬時に流れ消えていくSNSそのものである。そのツィンマーマンの意図を可視化するようなスクリーン上の字幕は実に素晴らしい出来であった。殆ど読むことができない箇所も多数。
 
その他の音楽的な要素で言えば、スガダイロー・クインテットによる即興ジャズ・コンボも痛快だった。しかし何より体が凍りついた箇所は、オルガンを含むオーケストラの大音響が民衆デモのコラージュに推移して行き、一瞬静寂が訪れた後に全合唱が「ドナ・ノービス・パーチェム(我を救い給え)」という、レクイエムの典礼文には本来ない一節を絶叫する大詰めの場面だ。この絶叫の阿鼻叫喚ぶりもさることながら、楽曲最後の「パーチェム」の"m"の余韻を大野さんがハミングで残したことに鳥肌が立った。ギーレン、ベルティーニらの音源で確認した限りでは、これは大野さん独自のアイディアのようだ。曲の唐突な幕切れにクッションを与える意図かもしれないが、自分には真逆に感じられた。あらゆる分野の知見を総動員してメッセージを発しても、なお語り切れない作曲家の思いがこのハミングに込められているように聴こえたのだ。原始以来のあらゆる怨憎が地獄の入り口でおいでおいでをしているような—そんな光景がチラリと見えてしまったのは、自分だけだろうか。

とにかく凄いものを聴いた。これだけの作品の日本初演が成されたということ事体が一つの「事件」である。演奏終了後のステージは緊張感から解放されたようなホッとした雰囲気もあったが、(大野さんの指示があったとはいえ)自然発生的に起こったジャズ・コンボの即興演奏も含め、全てをツィンマーマンがサントリーホールの上方からじっと見ているかのような、ジワリと冷たい余韻をも残す演奏会だった。