2015/11/15
内田光子ピアノ・リサイタル 2015
@サントリーホール

シューベルト: 4つの即興曲 op.142 D.935
ベートーヴェン:ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲

ピアノ:内田光子

内田光子のピアノリサイタル、第2夜である。前半の即興曲が後半4曲に差し替わり、ディアベッリ変奏曲は共通。至ってシンプルであり、作曲家の到達点を存分に感じられる組み合わせ。

先日の前半4曲でもそうだったが、内田光子の集中力は尋常でない。一旦ピアノに向かってしまえば、憑かれたように作品の世界に没入して最後まで帰ってこない。この鬼気迫る没入、彼女の音世界の表出が苦手な人もいるのはよく分かるが、自分は本当に脱帽してしまう。 
晩年のシューベルト特有の、美しい音を求めていたら気が付けば彼岸すれすれ―いや、対岸かもしれない―に辿り着いてしまったことに気づき、ふと我に返るような音楽の運び。この、危うさの中に秘められた美を、内田光子はまさに体現していた。第3楽章のロザムンデ変奏曲が淑やかに始まり、分散和音の連続を伴いながら狂おしく転調し、また主題に回帰するのは象徴的だ。なんという音楽だろう。

後半のディアベッリ変奏曲であるが、こちらは第1夜とは共通のプログラムにも係らずまったく違う印象を受けた。作品への取り組み方が変わっているとは思わないのだが、明らかにこの日の方が荒々しい。さらに野卑な言い方をすれば「猛り狂っていた」とでも言おうか。
進行につれて深遠さが増していくのは曲自体の性格であり、内田光子は第32変奏のフーガに向けて音楽の密度を集中させた。山の頂点を置く、というよりは、地下へ続くトンネルの最深、という方が相応しいだろう。そして、すべてが停止するようなフーガの後には何事もなかったかのようなメヌエットが返ってくる。すると、聴き手は唐突な感覚に襲われることになるのだ。「あれ、今まで見ていたものはどこへ行ったの?何だったの?」と。集団催眠にかかったのではないか、とすら錯覚する。これが内田光子の凄さなのか―。

これは邪推かもしれないが、記しておく。内田光子の表現の変貌は、公演の2日前に起こったパリでの惨事に対する彼女なりのレスポンスではないか?そんな軽薄なものではない、とお叱りを受けるのは分かっているのだが、真に求道的な芸術家とは世界の動き、それにより起こる聴衆の微妙な空気感の変化にも反応してしまうものではないだろうか。彼女はおそらく意図せずして、時代を超えたベートーヴェンの普遍的な言葉を代弁したのではなかろうか。世界の平安という永遠の問いに対する一つの返答、大袈裟でなくそう感じられた恐るべきディアベッリ変奏曲であった。