2015/11/22
東京交響楽団 第632回定期演奏会
@サントリーホール

リゲティ:ポエム・サンフォニック~100台のメトロノームのための
J. S. バッハ(ストコフスキー編曲):甘き死よ来たれ
R. シュトラウス:ブルレスケ
~ソリスト・アンコール~
ショパン:ワルツ第3番 Op. 34-2

ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

ピアノ:エマニュエル・アックス
管弦楽:東京交響楽団
コンサートマスター:グレブ・ニキティン
指揮:ジョナサン・ノット

首都圏クラシック音楽界の「台風の目」となりつつあるノット×東響による今シーズン最大の意欲作、それが今回のプログラムだ。どの切り口から見ても、天才としか思えない。リゲティを経てJ. S. バッハへ行く流れは既にバンベルクで披露済みとのことだが、全ての構成に必然性があり、かつ斬新極まりない。ノットのような感覚を持つ指揮者を得たオーケストラが飛躍しないわけがないのだ。

ホールに入ると、白塗りのメトロノームがindifferentに時を刻んでいる。舞台の前面に並べられ、両端で数を整えられたそれらの「楽器」は思いのほか少なく見えるものだ。物珍しげに間近で観察する人、しばらく聴いた後ロビーへと戻っていく人―開場から開演までの間聴衆はめいめい行動するが、その30分弱の間に「演奏」は徐々に表情を変えていく。少しずつずらされてチューニングされたメトロノームは最初ノイズにしか聞こえないが、一台、また一台と数を減らしていくと音楽としての骨格があらわになっていく。客電が落とされ、「楽器」が残り僅かになると静かに楽団員、続いてノットが入場して完全な静寂の訪れを待つ。その瞬間までは思ったより長く、一台のメトロノームを2000人の聴衆が固唾を呑んで見守る様子はさながらシュルレアリスム的であった。(もっとも、アンドレ・ブルトンは音楽に対して批判的だったが・・・) 
そして最後のメトロノームが停止すると、静寂から滑らかに音楽が流れ出し、やがてストコフスキーの手が加えられたバッハの敬虔な旋律がホールを包む。これは無から有への移行とも捉えられるだろうが、生から死への旅立ちかもしれない。あたかも、病室のモニタが刻む無機質な電子音が心停止を告げ、黄泉の世界へ人を誘うように。結局は同一事象の裏返しである。
広がった音楽の流れは尚も続く。そのままアタッカで「ブルレスケ」冒頭のティンパニ・ソロが奏され、一気に華美なシュトラウスの音楽が響き渡る。気がつけばピアノの前には既にアックスが座っている。そう、彼もまた静々と入場していたのだ。
豪壮な作曲家一流のピアノ協奏曲である「ブルレスケ」だが、曲の持つ諧謔味が今回ばかりは冥界からのいたずらのように響く。思えばブルレスケとはマーラーが第9交響曲の第3楽章でシニカルに用いた様式であり、悪魔的な側面はもともと有している。巨匠アックスは流石に華麗なソロを披露し、曲中に散りばめられた技巧的な難所も危なげない。オケもシュトラウスの語法に長けていると感じた。

場違いなくらい陽気に喝采に応え、アンコールまで披露したアックスにより少々現実に引き戻されつつ、客席に戻ると再び異世界へ誘われる。ノットは登壇するとすぐに振りはじめ、ショスタコーヴィチ冒頭のフルート・ソロが響く。音域を広く使った、問題提起ふうのソロに続く弦楽のピッツィカートがとても良い。艶消しされ、重心が低くそれでいて芯は確かだ。ノットは全楽章ごく自然体で振り続け、頻出するソロを奏するトップ奏者たちとの目に見えない交流を楽しんでいるようだった。時折激昂して荒々しくトゥッティが炸裂しても、すぐ平静に戻る。ノット自身がその感情の振れ幅を指揮で体現する。(そして、恐らく彼はそんな自分を俯瞰して冷静に見ているのだろう)
思えば、全ての要素が有機的に絡み合っていたのだ。ショスタコーヴィチ自身が生涯用いた革命歌の断片、チェロ協奏曲第2番のホルン動機などは第1楽章から現れる。また、第4楽章で現れる葬送行進曲動機、トリスタン動機はノット/東響によるこれまでの、またこれからのヴァーグナー演奏を語っている。そして、打楽器に始まり打楽器で終わる構成は前半に演奏された「ブルレスケ」と共通するのだ。より大きな視点で見ると、今回のプログラム全体が打音に始まり打音で終わっていく。その意味するところは、作曲家ショスタコーヴィチの死であったのか、それともより普遍的で大きな存在であったのか―。結論は委ねられている。
ショスタコーヴィチ15番という曲ではなく、専らこの演奏会における演奏の意義について書いてしまったが、演奏そのものも素晴らしかった。管楽器のソロに若干余裕のないパートもあったが、ドイツ放送オケ風の重心が低く、かつ機動力の高いサウンドは在京随一の水準である。ショスタコーヴィチ演奏における「文脈」の読み取りは、いまや完全に演奏者の自由となったことも痛感した。

最後に、この定期演奏会から一週間後に行われたオペラシティでの公演後、マエストロ・ノットにお伺いして「その通りだ」とお返事を頂けた点について記しておきたい。
マエストロはこの定期演奏会で静から静への円環を描き、東洋的円環思想である輪廻転生をも暗喩した(=東京という地でオーケストラの監督を務めることへの意思表示でもあっただろう)。だがそれに留まらず、今シーズン最後と来シーズン初め―これもレトリック的な意味があるのか?―に振るオペラシティ公演を繋げてみると、円環が浮かび上がるのだ。11月28日のオペラシティシリーズで冒頭に演奏されたのは、限りなく静寂に近いフェルドマン作品。そして、来年4月16日の同シリーズを締めくくるのが、R. シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」。自然と人間の対立のうちに、静へと戻っていく楽曲だ。

ジョナサン・ノットと東響の冒険をあと10年も楽しむことができる。こんな恵まれた時代にいることに、ただ感謝する他はない。