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April 12, 2016

2016/4/12 ロト/都響 ストラヴィンスキー

2016/4/12
東京都交響楽団 第805回定期演奏会Aシリーズ
@東京文化会館 大ホール

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)
ストラヴィンスキー:バレエ音楽「火の鳥」(1910年版)

管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:フランソワ=グザヴィエ・ロト 
 


都響の「ペトルーシュカ」&「火の鳥」全曲というと、4年前の東京・春・音楽祭公演を思い出す。3月-4月と年度をまたいで都響と共同作業を行ったインバル、どのプログラムも大変な評判だった覚えがある。彼らのストラヴィンスキー演奏からほぼ丸4年後、同じホールで再びこの2作が取り上げられた。

「ペトルーシュカ」においてインバルは一般的な1947年版を使っていたが、ロトはオリジナルの1911年版を用いた。この両版の大きな違いは、オーケストラ編成が4管編成(1911年版)から3管編成(1947年版)へ縮小されていること。(年初の山田和樹/N響も1911年版だった)また新古典主義に傾倒していた時期に手を入れたので、オーケストレーションも幾分すっきりしている。(これは後述する「火の鳥」も同じだ)オーケストラの配置は先日のB定期と同じくヴァイオリンを両翼に振り分け、ヴィオラ→チェロ、その後ろにコントラバスと音域順に下手から上手へ並ぶ。「英雄」ほどには両翼配置の効果が鮮明に感じ取れなかったが、これがロトの通常スタイルということだろう。

作曲当時の楽器を用いて演奏する手兵レ・シエクルとモダンオケの都響ではまったく勝手が違うはずだが、そこは南西ドイツ放送響ともマーラーやシュトラウスを演奏するロト。ノン・タクトで嗅覚鋭く音楽を作っていった。3体の人形が命を吹き込まれて、コミカルかつゾクリと冷たい余韻を残す展開を繰り広げるのが「ペトルーシュカ」だが、ロトの明晰な指揮で聴くと踊りが眼前に浮かぶようだ。オーケストラの類稀な色彩感覚を引き出した点も見事だが、最も関心したのはペトルーシュカ、ムーア人、バレリーナという主たる3体の人形が、音楽から示準動機的に浮かび上がってきたことだ。元来ストラヴィンスキーという人は、神秘のヴェールで作品を覆い大上段に構えるヴァーグナーに嫌気がさして対抗路線を模索したわけだが、即物的な音楽の中に舞台上の視覚的要素が多分に感じ取れる点は疑いようもないヴァーグナーとの共通路線ではないか。これを本人に言ったら怒るだろうけれども。

ロトの工夫として見事だったのは第4場の「謝肉祭の夕方」から「乳母の踊り」の移行部で、ロトは第1ヴァイオリン全員に弾かせずコンマスとトップサイドの方だけに弾かせていた。これに続きホルンが入り、やがてオーケストラ全体が踊りを奏でるのだが、音楽が内包する期待感と物理的な遠近感の両方が同時に表現されていた。ペトルーシュカの乱入以前の音響的なクライマックスを形作る「御者と馬丁の踊り」では弦のダウンボウにかなりの重量感が持たせられ、その上少しずつテンポを上げていく。ペトルーシュカがムーア人に斬殺された後の群衆の沈黙を語る弦の最弱音によるトレモロも複雑な情感に富み、亡霊の出現と謎めいた終結に向け、空気を一変させることに成功していた。

後半の「火の鳥」はバレエ全曲の1910年版による演奏で、バンダを含む大編成だ。これまで聴いてきたほとんどの演奏が霞んでしまうような衝撃を前半の「ペトルーシュカ」で受けたので、その余勢を駆ってさらなる飛翔が生まれるかと思ったが―結果的には予想の範疇にとどまったという印象。それでもこれまで聴いた同曲の中ではとりわけ印象深い演奏であった。
冒頭の低弦のピッツィカートが徐々に弦5部へ波及していき、不気味なカスチェイを写実的に描写する。この弦の音色がいい意味で不快そのもの、鳥肌が立った。(この時点でもはや童話ではない!)オペラグラスで見た限りでは弾く位置を楽器の駒寄りにしていたようだが、他にも工夫があったかもしれない。個人的に「火の鳥」の全曲版は幾分冗長に感じてしまい、1919年版の組曲に採られている箇所が来ると安心するのだが、その点今回のロト/都響による演奏はあまり飽きなかった。「ペトルーシュカ」での遠近感・音楽の流れの良さは後半でも保たれ、しかもそれが甘さを排しカドの立った音響の中で繰り広げられるのだからたまらない。終結近くでホルンのグリッサンドがないのは1910年版の特徴だが、ロトはそこに弦にスタッカート処理を加えて1945年版を先取りしていた。最後の一音でシンバルを加えなかったのはどういう意図だろう?いずれにせよ、「火の鳥」から豪奢な音絵巻という 要素を可能な限り排し、音色とリズムの交錯の妙で聴かせるという非常に硬派なアプローチ。その意味では最後の処理もロトの好みなのかもしれない。ちなみにバンダは舞台裏にトランペット&ヴァーグナーテューバ、その後トランペットは舞台に移動して最後は立奏という流れ。

ロトのストラヴィンスキー、作品に対する見方を改めざるを得ない演奏だった。特に前半の「ペトルーシュカ」は、この曲に求めたい鋭利な刃物のようなヒンヤリとした情感が色彩豊かな音響の中に表現されるという、ある種矛盾する要素が併存していた。技術・表現の両面で大変な難曲であり、演奏会冒頭に持ってくるのは不安要素だったのだが、精緻さを見せつけた都響は見事だ。ホルンセクションは前後半とも更に健闘してほしかったが・・・。
後半「火の鳥」はそれに比べると純粋に音楽として楽しめる要素が大きく、のちの「春の祭典」を予見するような不気味な要素は少ない(ロトは表出させていたけれども!)。その点で、ストラヴィンスキーのカラーの違いを聴衆に意識させるプログラミングだったのだろうか。個人的には、この2曲を合わせて聴くことで当夜取り上げられなかった「春の祭典」をも聴いたような感覚にとらわれている。 

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takupon68 at 22:30│Comments(0)TrackBack(0)公演評 

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