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April 15, 2016

2016/4/15 ポリーニ・プロジェクト第2夜 ベリオ、ブーレーズ、ベートーヴェン

2016/4/15
東京・春・音楽祭―東京オペラの森2016
ポリーニ・プロジェクト ベリオ、ブーレーズ、ベートーヴェン
~ポリーニ・プロデュースによる室内楽 第二夜
@東京文化会館 小ホール

ベリオ:セクエンツァより
VII(オーボエのための)
IX(クラリネットのための)
XII(ファゴットのための)

ブーレーズ:弦楽四重奏のための書より
V. Lent, mais mobil
VI. Modéré

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番

弦楽四重奏:ジャック・クァルテット
ヴァイオリン:クリストファー・オットー、アリ・ストレイスフェルド
ヴィオラ:ジョン・ピックフォード・リチャーズ
チェロ:ケビン・マクファーランド
オーボエ:古部賢一
クラリネット:アラン・ダミアン
ファゴット:パスカル・ガロワ

 

ピアニスト・ポリーニがプロデュースする「ポリーニ・プロジェクト」の一公演。東京・春・音楽祭とのコラボレーションによる2公演、その翌日の彼のリサイタルという3夜構成である。
東京春祭の2公演はいずれも同じ構成で、ベリオのセクエンツァ抜粋、ブーレーズの「書」、そしてベートーヴェンの弦楽四重奏曲というもの。第1夜は聴けなかった。時代と様式の対比という意味で二晩に分けたのだろうが、片方だけしか聴けないので何となく据わりが悪い。

ベリオ「セクエンツァ」はイタリア語で「シークエンス」という言葉の意味通り、さまざまな単音が「連続」していく。オーボエが最も分かりやすいだろう。舞台裏で鳴らされる電子音のH(初演者ホリガーのHか?)、オーボエが繋いでいくHが同時間軸上で進んでいく。すべての曲で楽器の技巧は極限まで引き出され、高速パッセージや叫びも挿入される。プログラムの挟み込み曰く、それぞれ表情の異なる単音の連続、そして電子音と楽音の対比がポリフォニックということらしい。これは幾分比喩的な意味にも聞こえるが。ちなみにベルリン・フィルは、2011-12シーズンにベリオを集中的に取り上げ、「セクエンツァ」も通常公演と組み合わせた形で効果的に演奏されている。詳細は こちら
オーボエの古部さんは素晴らしかったが、クラリネットのダミアンとファゴットのガロワが圧巻。特に初演者ガロワは表現の余裕が段違いで、ファゴットという楽器にこれほどの可能性があるのかと瞠目した。ダミアン、ガロワは二人共アンサンブル・アンテルコンタンポランの名手だ。
続くブーレーズの「書」、これはもうすごい体験をしたという一言。セリエリズムの影響下にあった作曲家による精妙極まりない作品で、弦のミュートの着脱やアタックの瞬間など、徹底的に書き込まれた指示をジャック・クァルテットは俊敏にこなしていく。自分にはどこがどうと分析するのは到底不可能だが、こんな作品を書く方も書く方だし、演奏する方は何をかいわんや。

後半のベートーヴェン第16番は、一転して悪い意味で仰天した。前半の精緻さが嘘のように崩れ去り、アンサンブルは雑でボウイングは上滑り、フレーズのどこにも力点が置かれない。その中ではヴィオラの表情は比較的雄弁だったか。前半とヴァイオリンが交代して、1stがクリストファー、2ndがアリになったのだが、クリストファーの音程が苦しい。特にハイポジションで速くなると余計に厳しかった。第2楽章結尾の上げ弓の表情は若干ノン・ヴィブ風で面白かったが、後から考えればこれも力を抜きすぎた故の音か。アンサンブルは終楽章後半になっても依然として熱度を伴わず、こんなベートーヴェンってあるのか?と思ううちに終結。ただ一点、終楽章でピッツィカート挿入の直前に訪れるシェーンベルク風の和音はやたらとリアルな味を醸していた。

前半だけで帰ってよかったのかもしれない。ポリーニのプロデュースによるこの企画自体は意味あることだったが、ジャック・クァルテットにベートーヴェンを求めるべきではなかったのではないか?完全に曲の読み込み不足だし、本人たちもブーレーズが嘘のようにギクシャクしていた。まさか、ベートーヴェンは現代音楽よりはるかに難しい、というメッセージを伝えたいわけではなかろうし。  


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takupon68 at 23:00│Comments(0)TrackBack(0)公演評 

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