2016/4/19
読売日本交響楽団 第591回サントリーホール名曲シリーズ
@サントリーホール 大ホール

J. S. バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻より 第24番 BWV869 前奏曲
(ストコフスキー編曲による弦楽合奏版) 

ベルク(フォン・ボリース編曲):パッサカリア
ベルク:歌劇「ヴォツェック」より 3つの断章

モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」

ソプラノ:エヴェリーナ・ドブラチェヴァ
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:小森谷巧
指揮:下野竜也
 
オーケストラの入場に合わせて客電が落とされ、指揮者も静かに指揮台の上へ。アナウンスが告げられ、この度の熊本地震の犠牲者の追悼としてバッハの前奏曲が演奏された。演奏後の沈黙の中、どこかの客の鼾が響いていたのは何とも愚鈍たる行為であり、祈りを捧げる会場の一体感を削ぎかねなかったことを付記しておく。コンサート前の休息だ、何が悪いと言われればそれまでだが、そういうものでもなかろう。

本プロはベルクが完成させなかった「パッサカリア」の補筆完成版に始まる。ヴェーベルンのOp. 1も同名作品であり、プログラムには意図的な関連が言及されていた。1913年の作曲で、後述する「ヴォツェック」に着手する1年前のことだ。まだベルクが12音技法による作品を発表する10年前の作品であり、妖しげな管弦楽のゆらめきはいかにも世紀末ウィーンの音楽。ヴァイオリン独奏も濡れたような響きだ。

続く「ヴォツェック」より3つの断章、これはベルク自身の編纂による演奏会組曲だ。12音技法は部分的に用いられているが、無調部分と調性を有した部分が巧みに繋がれており聴き易い。ここに来て、追悼演奏の曲に選ばれたバッハのロ短調が12音を用いていたことに気づく。
第1幕のマリーのアリア、第2幕冒頭の聖書朗読からの悲嘆、第3幕第4場のレクイエムから幕切れまでと代表的な場面を集めてある。個人的には、歌劇全曲の冒頭を飾るベートーヴェン「田園」のグロテスクな変容があまりに衝撃的なのだが、この組曲だけでも「ヴォツェック」の魅力の半分程度は分かるかもしれない。ロシアのソプラノ・ドブラチェヴァは高音で抜けの良い歌唱を聴かせ、第3幕でマリーの子供達が木馬で遊ぶ場面では下手側に移動して子供の声も担当した。マリーの聖書朗読ではより劇的な落差を求めたかったが、敢えて前述した子供の声は調子外れに歌うなど、オリジナル歌劇へのリスペクトもそれなりに感じられた。(この場面は、他の子供が"Dein' Mutter ist tot!"とマリーの子に容赦なく告げるという、幼児ゆえの残酷さが感じられるのだ)
下野さんの指揮は実に見事で、ニ短調の悲痛な叫びとなるマリーのレクイエムではオーケストラから凄惨な音響を引き出していた。岡田さんのティンパニが骨格を引き締める。彼の指揮で全曲を聴いてみたいい、と思わせる美しくも哀しい響きだった。

後半のモーツァルト「ジュピター」は、16型から12型に縮小、ヴァイオリンは対向配置でヴィオラ-チェロの並びをとった。筋骨隆々とした音楽は、どこも危なげがない。「ヴォツェック」第2幕ではマリーが「なぜ私には憐れんで下さらないのですか!」と絶叫するが、キリスト教の主が救ってくれないならばギリシア神ゼウスにすがろう、とでも言わんばかりの風格ある「ジュピター」だ。第4楽章はリピート有り、下野さんらしい細部までがっしりと構築した演奏。読響の弦の滑らかさ、管楽器の明瞭な発音も素晴らしい。第4楽章の神々しいコーダは日橋さん率いるホルンが光った。

演奏終了後、下野さんは珍しくマイクを取り語りかけた。「九州で大変な事態が現在進行形で起こっている。我々も音楽家である以前に日本人であり、この国に住む以上は覚悟をしていると言っても、実際に事が起こると辛い思いだ。演奏会の後にお願いして恐縮だが、お力添えを頂き九州へ送りたい」との旨だった。自分は、1日1日を無駄にせずやるべきことをやり、変に動じないことが何よりの追悼になると考えているが、演奏会で直接的な支援が出来るのならそれもまた罪滅ぼしだ。ごく微力で恐縮だが、下野さんが持つ募金箱へ投じて帰った。鹿児島出身のマエストロは、強い笑顔を見せていた。