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指揮者エリアフ・インバル80歳の誕生日を祝うインタヴュー・シリーズの第1部。

こんにち、エリアフ・インバル以上の経験をもって振り返ることができる指揮者はそれほど多くない。20台代半ばの時点で彼は既に世界中で引っ張りだこの客演指揮者になっていた。続く数十年の間、インバルはフランクフルト放送交響楽団、フェニーチェ劇場管弦楽団、RAI国立交響楽団、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、そして東京都交響楽団で音楽を創ってきた。これらのオーケストラとインバルは緊密な関係にあり、彼のいまだ精力的な指揮活動の中でも不可欠なものとなっている。

我々(注:インタヴュアーのニーナ・ロルフス氏およびインバル所属事務所のカルステンヴィット)は彼の誕生日の一ヶ月前、ベルリンのコンツェルトハウス管で3つの演奏会を指揮していたインバル氏に会うことが出来た。第1部では、インバル氏の幼年時代やパレスティナとイスラエルで過ごした駆け出し時代についてお届けする。
 
ニーナ・ロルフス(NR):インバルさん、2月16日に80歳を迎えられますね。しかしあなたは2つの誕生日があると伺ったのですが、どういうことなのでしょうか?

インバル(I) :私の公式な誕生日は2月16日です。占星術が読めるスカラ座のヴィオラ奏者が、私がいつ何時に生まれたのかを正確に知りたがったのですよ。私が母に聞くと、彼女はこう言いました。「ああ、それは簡単よ。あれはシャバート(注:ユダヤ教の安息日)の晩の日没だったわ」 私はある日にちが何曜日かを知ることが出来る時計を持っており、時計には日曜日と出ました。なので私はまた母に「僕は日曜日に生まれたんだね」と電話しました。すると母は、「違うわ。あれは土曜日の夜だったわ。でもユダヤ教では、日没の後はもう次の日でしょう」と言ったのです。 こういうわけで私には2つの誕生日があるのです。カレンダーの日付では実は15日なのですが、生まれたのは日没時。偉いラビだった私の叔父は、「スピリチュアルな人物になる前兆だ」と言いました。

NR:インタヴューに備えてあなたに関する色々なものを読みましたが、ご家庭についての情報はあまりありませんでした。

I:私の両親は東方の出身なのです。母は現シリアのダマスクスの出身。父はかつてイギリス植民地であり、現在はイエメンに属するアデンの出身です。父はパレスチナでイギリス政府の仕事をしていたので、私はイギリス文化に対してある程度の接触がありました。今でも私は英国のパスポートを所有しています。

NR:あなたのお名前にはある物語が隠されているというのは本当ですか?

I: 本当です。私の姓はもともとヨーゼフでした。ヨーゼフというのは(一般的に)名前でもあるので、いつも混同のもとになりました。指揮者になろうとはっきり決心したとき、名前としては用いられない姓が必要だと考えたのです。そこで私は「インバル」を選びました。インバル、というのは鐘の中にある舌のことで、これは指揮者という職業によく合います。私は鐘の舌であって、私ではなくオーケストラが(鐘として)演奏するのです。

NR:音楽とはどのように出会いましたか?ご家庭において音楽は重要なものでしたか?

I:ええ、大いに。しかしながらシナゴーグ(注:ユダヤ教の会堂)における典礼音楽、合唱、自分で歌うことに限られていました。これらが私の音楽的な背景の全てでした。しかしながら学校で―そうそう、私は普通よりかなり早く学校に入ったんですよ。クラスの他の生徒より2歳年下でした。学校で、ある音楽教師が別の教師の代役としてやってきました。彼は私たちに五線譜を持ってきたので、私は作曲を始めました。私が世俗音楽と出会ったのはこのときでした。

NR:それでは、何故ヴァイオリンを習い始めたのですか?

I:7歳の時に私の叔父が、ベニヤと弦で「ギター付きヴァイオリン」のようなものを作るのを手伝ってくれたのです。私はそれを弾き始めました。それから姉が音楽学校に私を連れて行き、聴覚などを調べられました。その音楽学校はすぐに奨学金を準備してくれ、ヴァイオリンも与えてくれました。これが始まりです。1940年代・50年代は、イスラエルにとっては波乱の時代でした―政治的にも、音楽的にも。例えばイスラエル・フィル創立の歴史ひとつとってもそうです。偉大なヴァイオリニストであったブロニスラフ・フーベルマンは(当時)何が起ころうとしているかを先んじて知っていました。1932年から33年にかけて彼は中欧のオーケストラをまわり、ユダヤ人音楽家達に「ヨーロッパには明日がない。イスラエルへ行かなければ」と伝えました。こうして中欧の素晴らしい才能ある音楽家達により、私の生まれた1936年にパレスチナ交響楽団(後のイスラエル・フィル)が創設されました。イェルサレムの放送オーケストラの団員もまた難民でした。こんにち、彼らのことは次のように呼べるでしょう―ナチス政権を逃れた音楽家達と。

NR:(ナチス政権は)また、そういった人々の音楽的な慣習をヨーロッパのものから別のものに切り替えさせたわけですね。

I:そういうことです。先ほど言ったように私の両親は東方出身ですので、私がどうしてブルックナーやマーラーとこれほどの繫がりを持っているのか疑問に思う人もいるかもしれません。音楽的な観点から言うと、実は私は中央ヨーロッパの豊かな伝統のまっただ中で育ったのですよ!和声、対位法、作曲を教えてくれた私の教師達はみなドイツからやってきました。素晴らしいヴァイオリン教師であり、パレスチナ交響楽団のリーダーだったローランド・フェニヴェシュはハンガリー出身でした。音楽分析は偉大な作曲家であったヨセフ・タルから、対位法はアベル・エールリッヒに習いました。小学校でさえ、ドイツからやってきた教師が多くいました。私の英語の先生だったブルーメンソールさんもそうでした。彼は私達にシェイクスピアを教えたのみならず、人生の原理をも教えてくれました。

NR:ご家族の出自は東方にあると仰いました。それは音楽的にもあなたにとって意味がありますか?

I: 大いに!東方とのかかわりにより、色やイントネーションに対する強い感受性を持つことが出来ました。この感覚は生涯持ち続けています。しかしながらまた、我が家には当時素晴らしい蓄音機がありました―まぎれもなく一級の調度品でありながら、機械としても純粋に機能したのです。私の初期の音楽的な経験はこの蓄音機を通してのもので、ラジオによって更に広がりました。学校に行く前、毎日イェルサレムの放送局「コル・イスラエル」を聴いていたものです。私は西洋の交響音楽の虜になっており、そしてそれが私の音楽になったのです。

第2部に続く)

ドイツ語/英語の原文はこちらから。 
この日本語訳は、インバル氏の所属事務所であるカルステンヴィットの許諾を得て行っております。