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May 27, 2016

2016/5/27 下野竜也/新日フィル 三善晃、矢代秋雄、黛敏郎

2016/5/27
新日本フィルハーモニー交響楽団 第559回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール 大ホール

三善晃:管弦楽のための協奏曲
矢代秋雄:ピアノ協奏曲
~ソリスト・アンコール~
J.S. バッハ(ブゾーニ編曲):われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ BWV639

黛敏郎:涅槃交響曲

ピアノ:トーマス・ヘル
男声合唱:東京藝術大学合唱団
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:豊嶋泰嗣
指揮:下野竜也



素晴らしいプログラム。20世紀日本の西洋音楽界(これ自体、ある種の矛盾を孕んだ言い回しだが)に燦然と輝く巨匠達の傑作を並べている。3作いずれも重量級で、オーケストラのリハーサルはさぞかし困難を極めたことだろう。しかしながら、21世紀の今、これらの作品を「古典」として弾き継ぎ、聴き継ぐことには大きな意味があろう。プログラムノートにもあったが、三善・矢代・黛はみな1950年代パリ音楽院に学び、三者三様の個性を持った作曲家として世に出た。前半の二者がヨーロッパ―それもやはりフランス音楽―の薫りを伝える一方、黛のアプローチは異様な雰囲気を持つ。彼は「西洋に学ぶものなし」として1年で留学を打ち切ったそうである。

三善晃「管弦楽のための協奏曲」は3楽章構成ながらわずか10分の曲であるが、演奏会の開始としては至極強烈な印象を与える。いわゆる「オケコン」の形態をとる作品は数あれど、オーケストラの妙技を愉しく味わえるものが多い。統一感の強さゆえに、交響曲と変わらぬ聴後感をもたらすものもある。その点で、三善晃は全く違う。さまざまな要素を内包するオーケストラという装置を、めまぐるしく視点を変えて観察するような強烈さだ。例えるならば、同じ角度で同居するはずのない表情が一面に立ち現れたキュビズム絵画を目にした際の困惑・衝撃に近いだろうか。1楽章からソロとトゥッティの洗練を極めた対比、鮮烈なリズム処理に度肝を抜かれる。第2楽章はLentoで静謐だが、あくまで音量的な差異だ。第3楽章Prestissimoはまさに三善晃の精緻な設計図が全開となり、響きとしてはすさまじい情報量だが氾濫という印象は与えない。あくまで洗練された音楽なのだ。

対する矢代秋雄「ピアノ協奏曲」はより構造を把握しやすい。冒頭で12音がいきなり用いられることは驚きだが、あくまで旋律は美しく聴き易い。フルートが奏でる第2主題では、ピアノが分散和音で不気味な和音を弾いて寄り添う。細部は異なるが、あの「緊急地震速報」(伊福部昭の甥・伊福部達が作成)にそっくりだ。トーマス・ヘルのソロはタッチが硬質で粒立ちよく、それでいて音楽の運びは柔軟だ。オケの響きはフランス風味と作曲家独特の研磨が両立され、なんともいえぬ魅力を持つ。バルトークの機械的なリズムやメシアンの恍惚を吸収しつつ、矢代秋雄特有のものと判断できるその音楽は今なお新鮮で、古典的均整も保つ。名作に違いない。
アンコールでトーマス・ヘルが弾いたのはブゾーニ編曲のバッハ。彼のソロを聴いて、6月のリゲティ「エチュード」全曲プログラムに行けないことを悔んだ。素晴らしい演奏だったようだ。

後半は黛敏郎の「涅槃交響曲」。前半の二者との鮮やかな対比は既に述べたところだが、実演で聴くとその異様さはいよいよ際立つ。読経を録音やヴィデオで体験してもあまり意味がないように、この音楽こそはナマで聴かねばなるまい。梵語の合唱は声楽・オケ共に同声部内では同音反復が多い。ある種ミニマル的な昂りも有しているということか。細部の絶妙なズレが蓄積され、やがて涅槃の境地に至るのだ。音量的な昂揚とは裏腹に、沈黙の度合いも強めていくような―いずれにせよ、一般的な西洋音楽とは違った聴後感であることは間違いない。一階後方に置かれた2群のバンダの響きも併せ、ホールがぐるぐると渦を描きながら上昇していくような浮遊感を得た。(なお、このバンダの位置には苦しいものもあっただろう。幸い今回は1階席中央の座席だったため良好なバランスで聴取できたが、2階席ではバンダばかり聴こえたそうだ。トリフォニーホールの空間がそもそも、バンダの配置に難がある)
演奏について言及するというよりも、まずこの曲に(比較的)若い演奏者陣が向き合い、誠実に表現したということを讃えたい。まずは最高度の明晰さを誇る下野さんのタクトが圧倒的に素晴らしい。僅かなズレも瞬時に修正する能力は現代でも屈指ではないか。新日本フィル、東京藝大の男声合唱も見事だったが、初演と同時期の録音が持っている「自分達の音楽なのか、それとも西洋音楽なのか」という困惑のような表情はさすがに皆無。初演からほぼ60年が経過し、良くも悪くも―いや、この曲ではマイナス面が多いか―西洋の「交響曲」的なアプローチが成されていた。それは声楽の基本姿勢からしてそうだ。ソリストの発声は大変「音楽的」であった。

この日のロビー・コンサートはライヒ「木片のための音楽」。徹頭徹尾20世紀の作品で固めた演奏会であったが、聴衆は思いのほか好意的な反応で演奏者を讃えていたように思う。このような硬派なプログラムを新日本フィルはもっと定期に入れて欲しい。単に邦人作曲家や現代作曲家を入れればいいというのではなく、「日本でクラシック音楽を演奏すること」の突き詰めた意義や将来性にも目を向けて欲しいと、切に願うのである。 

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takupon68 at 22:30│Comments(3)TrackBack(0)公演評 

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この記事へのコメント

1. Posted by 蜂 蜜郎   July 09, 2016 19:37
「日本でクラシック音楽を演奏すること」の突き詰めた意義・・・絶えず問われながらも、様々な問題点を孕み答えるのが困難な問題ですね。自分なりに考えたことをきいてください・・・
近年話題の「クール・ジャパン」を牽引するメンバーに、残念ながら日本のクラシック音楽界の姿は見えません。
日本の伝統・・目に見える形式であれ、事物の背後に潜在しているフィーリングや手口のようなものであれ・・の洗礼を受け、さらにグローバルな視野で時代の先端を切り開いていこうとする活気に溢れる者たちだけが、「クール・ジャパン」の称号を受ける資格があります。
日本のクラシック音楽界の顧客たちは、音楽を権威やステータスとして捉えているように見えます。クラシック音楽界がこうした状況に甘んじていられる猶予はいつまであるのでしょう。斯界のリーダーと自他ともに認める楽団であっても、高齢の定期会員たちが不在な時代となったとき、ホールは、ホコリの積もった遺物を並べただけの博物館のように顧みる人もいなくなるでしょう。
私たちが「現代を生きる」ために有用な知性や感性、そしてその母胎たる日本の文化を奥深く層が厚いものとしていくための、音楽演奏を通した社会貢献をクラシック音楽界に期待したいです。文化庁や企業メセナ活動には、従来の体制の存続を援助するばかりでなく、基準を考え、「クール・ジャパン」に値する活動に傾斜的に助成を厚くするようなインセンティブを導入していただきたいと思います。
2. Posted by 平岡 拓也   July 10, 2016 19:44
蜂 蜜郎さま

大変力強いコメントをありがとうございます。
昨年の秋でしたか、オーケストラ連盟主催で「日本のオーケストラを考える」というようなシンポジウムがありました。欧米の評論家を呼んで、日本のオーケストラや音楽界について持論を述べるという場でしたが、その内容を聴きながら次のようなことを思っておりました。
まず、「西洋に追いつけ追い越せ」はもはや完全に時代遅れであるということ。20世紀後半以降オーケストラのみならず世界中の文化は多極化の一途をたどり、日本のオーケストラがヨーロッパの名門に匹敵、といった観点そのものが無意味になりつつあると感じます。勿論技術的レヴェルの向上はそれとしてすばらしいことではありますが。
第二に、日本の作曲家で世界中の楽団のレパートリーとなる人物が生まれたとき、ようやく日本のクラシック音楽界は世界における一つのステータスを確立するのだ、という意見がありました。これはなるほど理解できます。武満徹は音楽界の共通言語でしょうが、ベートーヴェンやブラームスといった作曲家ではありません。日本としての決定的なアイデンティティを持つ作曲家が現れ、音楽界に刺激をもたらしてくれることを望む次第です。
3. Posted by 蜂 蜜郎   July 14, 2016 20:52
仰る通り、「純正クラシック音楽」輸入だけの時代は終焉し、今や時代の感性や思想が息づく芸術を、日本の音楽家も世界共通のステージで活発に発信し評価されている時代となっているのですね。また、ジョナサン・ノットをはじめ文化の多極性の尊重・・音楽芸術のあり方を柔軟に捉え、日本における音楽受容の多様性を推進しようとする芸術家が日本へ来てくれています。それだけ日本の文化は世界から注目されているといえるのでしょう。オーケストラはこのような受容と発信のコミュニケーションの架け橋として発展していってほしい。

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