2016/7/1
新日本フィルハーモニー交響楽団 第560回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール 大ホール

マーラー:交響曲第8番「千人の交響曲」

罪深き女:エミリー・マギー(ソプラノ)
懺悔する女:ユリアーネ・バンゼ(ソプラノ)
栄光の聖母:市原愛(ソプラノ)
サマリアの女:加納悦子(アルト)
エジプトのマリア:中島郁子(アルト)
マリア崇敬の博士:サイモン・オニール(テノール)
法悦の教父:ミヒャエル・ナジ(バリトン)
瞑想する教父:シェンヤン(バス)
栗友会合唱団(合唱指揮:栗山文昭)
東京少年少女合唱隊(合唱指揮:長谷川久恵)
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:豊嶋泰嗣
指揮:ダニエル・ハーディング

新日本フィルのMusic Partnerとしての任期をいよいよ終えるダニエル・ハーディング。Adieu公演に彼が持ってきたのはマーラーの第8番。彼がNJPと歩んできた道のりの中心レパートリーは、やはりマーラーであった。その交響曲中最大規模の作品で幕を引くのはごく自然であろう。ただ、ハーディングはウィーン・フィルのツアーをキャンセルしたガッティの代役として27日バルセロナ、28日フィレンツェの公演を指揮してから来日した(ちなみに、21日ウィーン、23日パリ、24日マドリッドを受け持ったのは東響音楽監督のジョナサン・ノット)。 つまりハーディングは通常の3日練習のうち最後の1日しか振れなかったわけだ—任期の締めくくりにおけるこの行為については、あまりに不誠実ではないか、といった意見が当然あって然るべきだと思う(実際各所でそのような声は上がっていた)。一聴衆である自分としては、あくまで出てくる音楽をもって判断しようと考えて錦糸町へ向かった。

まず聴き終えての印象だが、彼らの共同作業の掉尾を飾る公演に相応しいものだったのではないか。疑問符が残る演奏も決して少なくなかったこのコンビだが、今年1月の「戦争レクイエム」等、総まとめの段階に至ってハーディングとオケの距離が縮まったように思える。今回のマーラーでも、おそらくは国内で彼らにしか出せない音が幾度も聴こえてきた。
第1部は快速・インテンポ志向の運びが特徴的で、しなやかに緩急を付け柔らかく歌う第2部と対照を形作る。巨大な管弦楽の咆哮に圧倒されがちだが、ソナタ形式による構造をしっかりと感じさせたのはハーディングの美意識か。ほとんど溜めず、筋肉質な流れによりアルカイックな表情が浮かび上がった。唯一ハーディングがグイと操縦桿を手前に倒したのは、バンダ(オルガンの左側バルコニー)を加えての箇所だったか。
第2部序盤、ポコ・アダージョの箇所でハーディングはじっくりと音楽を進めていく。新日本フィルの弦もよくそれに応えていた。ただ、時折音楽の密度が「前方1-2プルト+トゥッティ」のように聴こえるのはこのオケの根本的な弱さにも思えた。第1部では合唱の前に陣取っていたバリトンとバスの独唱は、歌う直前に客席から登場しオケ前へ移動、オラトリオ的な性格が強まった。これは斬新な采配だ。中盤、ハープと弦の芳しい歌(ここもハーディングが念入りにテンポを示した箇所だ)に続く女声独唱は加納悦子さんが実に官能的な表現、邦人アルトのお2人は海外勢のソプラノに引けを取らないというより勝っていた場面も多かろう。だが神秘の合唱を導くオニールは別格の凄さだ。普段オペラの重要な役で長丁場を連日こなしている彼は、コンサートの独唱はハイトーンでも余裕で仕方がないという感じ。実に美しく雄渾だ。

「千人の交響曲」の大宇宙においてオケと同格の重要な役割を担うのが合唱だが、第1部のバロック的な厳格さと第2部のオペラ的即興性を栗友会はよく描き分けていた(これがダメだとハーディングの解釈はたちまち生気を失うだろう)。毎度ながら発声も丁寧、決して絶叫せずに独唱者・オケに場面ごとに寄り添った。ただ、トリフォニーの空間はいくらなんでも千人には狭すぎ、合唱で奥にいた演奏者の方は気の毒だった。東京少年少女合唱隊も当たり前のように高水準、その正確さには毎度ながら驚いた。
全3回公演の第1回ということで、オケの細部を中心にまだまだ改善される点は多かったが、音楽の内容は間違いなく指揮者の勝利だろう。アシスタントに3日練習の2日を任せてしまってもこれだけの水準に引き上げることが出来るという点において、ハーディングという指揮者はやはり大変な才人に違いない。