2016/10/15
東京都交響楽団 第816回定期演奏会Cシリーズ
@東京芸術劇場 コンサートホール

ペンデレツキ:ポーランド・レクイエムより シャコンヌ(1984/93/2005)
武満徹:ア・ストリング・アラウンド・オータム(1989)

チャイコフスキー:交響曲第5番

ヴィオラ:鈴木学
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:四方恭子
指揮:下野竜也
 
秋に相応しい、時間の移ろいを味わえる3品を集めたプログラム。下野マエストロの見識の高さがよく分かる構成であり、こういう少し渋めのプログラムが聴けるのも「定期演奏会」Cシリーズならではの魅力だろう。肖像シリーズ時代の作曲家固定ではどうしても幅が狭まってしまう。

ペンデレツキ「シャコンヌ」は、結果的に20年以上に渡り追加・改変が行われた作曲家の大作「ポーランド・レクイエム」の最後の一曲だ。ヴァウェンサ(ワレサ)で有名な「連帯」の依頼による「ラクリモサ」の作曲に始まり、ワルシャワ蜂起で従軍司祭を務め、戦時中ナチズム、戦後はスターリニズムと戦ったヴィシンスキ枢機卿を追悼しての「アニュス・デイ」、"アウシュヴィッツの聖人"マキシミリアノ・コルベ神父の列聖式に際しての「レコルダーレ」など、戦時下および戦後ポーランドの歴史と不可分な楽曲が並ぶ。ペンデレツキは政治色のある曲は書かない、とかつて言っていたと思うが、コンテクストとして母国の歴史を盛り込み、後は聴衆に委ねたということだろうか。
今回の「シャコンヌ」は弦楽合奏曲であり、2005年に死去したポーランド出身教皇ヨハネ=パウロ2世の追悼として書かれた。ペンデレツキと言えば「広島の犠牲者に捧げる哀歌」に代表されるトーンクラスターが特徴的だが、この曲では最後に弦のハーモニクスにより効果的に用いられる。ヴィオラに始まる旋律が変奏されていき、慟哭の表情を徐々に拡げていくのは哀しくも実に美しい。都響の弦楽の分離の良さも好演に寄与した。
(余談だが、小生がペンデレツキの名前を最初に耳にしたのは作曲家ではなく指揮者としてだった。2004年暮れのN響『第9』に彼が客演したのをテレビ越しに観た記憶がある)

続いては武満徹「ア・ストリング・アラウンド・オータム」。大岡信の詩集「秋をたたむ紐」の英訳ということで、「たたむ紐」の役割は独奏ヴィオラが果たす。ヴィオラはオーケストラと対比されるのではなく、ある時はそこに同化し、またある時はやや距離をとって遠景を眺めるように逍遥してゆく。これもまた秋の情感の表現であろうか。
今回ソロを務めた鈴木学は、今井信子と小澤征爾/サイトウ・キネンの同曲演奏・録音にも参加したという。いまそのサイトウ・キネンの録音を聴き返しているが、実演と録音という差は鑑みねばならぬとしても、今回の鈴木学×下野/都響の演奏は出色であった。枯れた味わいを聴かせる今井信子に対し、鈴木学はヴィオラの渋い好さは感じさせつつもあくまで色彩感豊か。対するオケも80's武満の耽美的な音色を存分に体現しており、多数の打楽器を用いた大オケをして刺激的ではなく円い音を響かせる。以前このオーケストラがナッセン指揮で演奏した「トゥイル・バイ・トワイライト」も実に精妙だったが、今回もDENONでの作品集録音以来の好相性を感じた。

休憩を挟み、仄暗い激情が魅力的なチャイコフスキー「交響曲第5番」。前2曲とはまったく異なるが、これもまた今の季節に映える楽曲ではなかろうか。いわゆる「超名曲」の部類に入る作品であるが、なんと下野マエストロがこの曲を振るのは生涯2度目だという。東京のオーケストラでは初めての披露、これいかに。
第1楽章の引き締まった造形感覚から全曲の構成は予告されていた。がっしりした都響のサウンドを活かし内なる凝縮と爆発を随所で引き出す、彼らしいアプローチ。いわゆる演歌がかった弦の歌は皆無、スクウェアな各セクションを活かしフレージングの繊細な味付けで聴かせる。第2楽章第2主題の高まりも知性と熱情の両立が素晴らしく、第3楽章はホルンのゲシュトプフを鋭く切って強調。終楽章は弦4部の緊迫した交錯を際立たせ、またティンパニのC-Gの連打を下支えするコントラバスのダウンボウを存分に鳴らす。都響の高機能を得てこその徹底した下野流チャイコフスキーであったが、聴後感として残るのは「ああ、良い曲だ」という感慨である。

なお、 2月に読響で同じチャイコフスキー「第5番」を生涯初披露(!)するというシルヴァン・カンブルランもこの公演を1階席後方で聴いていた。公演後は楽屋を訪れ下野氏と歓談したそうだが、チャイコフスキーのイメージからやや遠い両マエストロがどういった話を交わしたのか、気になるところではある。