2016/10/19
読売日本交響楽団 第563回定期演奏会
@サントリーホール 大ホール

シューベルト(ヴェーベルン編曲):6つのドイツ舞曲 D820
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲

J. M. シュタウト:ヴァイオリン協奏曲「オスカー」(2014、日本初演)
デュティユー:交響曲第2番「ル・ドゥーブル」

ヴァイオリン:五嶋みどり
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:日下紗矢子、長原幸太(デュティユー)
指揮:シルヴァン・カンブルラン

今季のカンブルラン/読響の公演の中でも、先日のデュティユー×ブルックナー、1月に控えるメシアン「彼方の閃光」と並び、もっとも楽しみにしていた演奏会の一つ。まさに「定期演奏会」という場で打つに相応しい意義深いプログラムであり、プログラムの中間に五嶋みどりのコンチェルトを2つ(!)置いた効果か全席完売。集客面でも成功していた。

一曲目はヴェーベルン編曲のシューベルト「6つのドイツ舞曲」。 今年4月にロトとこの曲を演奏した都響の曲目解説(小宮正安氏)に、興味深い言及があるので大意を以下に記させていただく。「ドイツ舞曲」はもともと南ドイツやオーストリアの山岳地帯の庶民に愛された、荒ぶる民族舞曲であった。18世紀には風紀を乱すという理由から様々な地域で上演禁止令が出されたほどだったが、同じく18世紀も終わりに差し掛かり市民階級が台頭してくると、リベラルな貴族を中心に徐々に柔和なドイツ舞曲が受け入れられるようになったとのことだ。(要約ここまで)
新しく社交界に出る市民にとって、ドイツ舞曲は「自分たちの踊り」であっただろう。複数のドイツ舞曲を残したモーツァルトの作品リストを見てみても、見事に1780-90年代に作曲が集中している。シューベルトが今回の原曲を書いたのはその数十年後、1824年のことだ。余談だが、作曲家による自らのルーツたる舞曲の収集は、世紀を進めてハンガリーのコダーイ、バルトークなどの例があるし、ジャンルは異なるがどこかアルニム/ブレンターノによるドイツ民謡収集に通じるように思える。
カンブルランは冒頭第1曲の第一音に大胆なルバートを施し、そこから一気に音楽を弾けさせることで異質な効果を発揮していた。いかにも無骨で、洗練されているとは言い難い踊り。それを現代オケの美音を用いつつ敢えて実践することがキモだったような気も。ただ読響は前述の第1曲でD.C.(繰り返し)時含めてヴァイオリン群がバラバラ、高弦に移った際のピッチも不揃いでかなり残念だった。第2部以降は復調したのだが。

続いてのコルンゴルト「ヴァイオリン協奏曲」は本当に素晴らしかった。「ドイツ」という国が存在しなかった時代の「ドイツ舞曲」に始まり、おぞましい第二次大戦により第三帝国たる「ドイツ」が瓦解した時代まで一気に飛ぶ訳だが―コルンゴルトが書いた音楽は、20世紀以前のドイツ・ロマン派的要素を内包した格調高いものだ。第3楽章に現れる「放浪の王子」(1936)のテーマはじめ、至るところに映画音楽の引用が使われているが、コルンゴルトにとってそれらは「自作の引用」に過ぎず、それによってこの協奏曲が「ハリウッド的」という形容詞で語られるのは本人の望むところでもなかろう。カンブルランの演奏は実直に音楽そのものと向き合っており、抑制された表情で語り始めた独奏としなやかに呼吸を合わせつつ豊かで陰翳深い世界を広げていった。五嶋みどりは終楽章の高速パッセージこそやや危なかったが、昨年のパーヴォ/N響との ショスタコーヴィチに比べ遥かに内的に掘り下げられた感銘深い演奏に思われた。

休憩を挟み、ヨハネス・マリア・シュタウト(1974-)のヴァイオリン協奏曲「オスカー」の日本初演。被献呈者・初演者である彼女の演奏で聴くことが出来るのは嬉しい。ちなみに作曲者へのインタヴューによれば、シュタウトは彼女が弾くブリテンの協奏曲を聴いて衝撃を受けたとのことだ。
冒頭は打楽器の一閃と低弦のピッツィカートに始まり、そこに鋭く斬り込むヴァイオリン・ソロが徐々に他の弦楽にも伝播してゆく。バルトーク「弦チェレ」のような雰囲気も有しつつ、ソロと合奏が互いに影響を与えながら発展する楽曲で、鋭く弛緩は一切無い。なるほど五嶋みどりのために書かれたというだけあって、演奏スタイルがカデンツァなども含め「完全に彼女のもの」といった趣である。弦楽器群の後方に3人の打楽器奏者が位置し、スレイベルやベルツリーなどを特殊な棒で擦ってトレモロのような響きを現出させていたのが印象に残った。なお、「オスカー」はウニヴェルザル社の ページで冒頭を一部聴くことが出来る上、フルスコアも閲覧できる。

「オスカー」を書いたシュタウトはドイツ・オーストリア圏の作曲家であり、1曲目のシューベルトに始まった大きな流れが現時点で辿り着いているポイントを示した。と同時に「オスカー」は、複数の相反する要素が同時に進行する瞬間を含むという点で今宵のメインたるデュティユー「ル・ドゥーブル」へと緩やかな橋を架ける。この「ル・ドゥーブル(分身)」という副題はソロ奏者による小オケと大オケの対比という「2群」、またポリリズムや多調など多義的であるが、今夜に限って言えば「2つ」のヴァイオリン協奏曲やドイツ・フランスという歴史的に根深い「2つ」の文化圏など、更に色々な読み解きが可能だろう。勿論作曲家生誕100年という意味もあろうが。
これまで聴いてきたカンブルラン/読響の演奏の中でも、この「ル・ドゥーブル」はとりわけ感銘を受けたものになった。前半に聴いたコルンゴルトも併せて忘れられないだろう。日下コンマス含め首席陣が並んだ小オケから立ち昇る音が大オケ(チェンバロは昨年5月の都響での同曲に引き続き鈴木優人)に流れ、また逆のパターンも然り。それらが実に洒脱で妖艶に奏でられつつ、カンブルランが導く音楽はあくまで形式感が明快でブレがない。この構造と色彩の絶妙なバランス感覚は、昨年の無骨なド・ビリー/都響とはまるで違う。文化会館とサントリーホールという違いはあるだろうが、指揮者とオケの呼吸に最大の要因があるように思われた。本当に素晴らしい聴きものだった。