2016/10/25
ウィーン国立歌劇場 「ナクソス島のアリアドネ」
@東京文化会館 大ホール

R. シュトラウス:歌劇「ナクソス島のアリアドネ」(プロローグ付き1幕/ドイツ語上演/字幕付)

演出:スヴェン=エリック・ベヒトルフ
執事長:ハンス・ペーター・カンメラー(バリトン)
音楽教師:マルクス・アイヒェ(バリトン)
作曲家:ステファニー・ハウツィール(メゾ・ソプラノ)
テノール歌手/バッカス:ステファン・グールド(テノール)
士官:オレグ・ザリツキー(テノール)
舞踏教師:ノルベルト・エルンスト(テノール)
かつら師:ウォルフラム・イゴール・デルントル(テノール)
下僕:アレクサンドル・モイシュク(バス)

ツェルビネッタ:ダニエラ・ファリー(ソプラノ)
プリマドンナ/アリアドネ:グン=ブリット・バークミン(ソプラノ)
ハルレキン:ラファエル・フィンガーロス(バリトン)
スカラムッチョ:カルロス・オスナ(テノール)
トルファルディン:ウォルフガング・バンクル
(バス)
ブリゲッラ:ジョゼフ・デニス(テノール)
水の精:マリア・ナザーロワ
(ソプラノ)
木の精:ウルリケ・ヘルツェル
(メゾ・ソプラノ)
山びこ:ローレン・ミシェル
(ソプラノ)
管弦楽:ウィーン国立歌劇場管弦楽団
ピアノ: クリスティン・オカールンド
指揮:マレク・ヤノフスキ
 
ウィーン国立歌劇場が4年ぶりに来日。この歌劇場の管弦楽団を母体とするウィーン・フィルは毎年来日しているわけなので(当たり前のように書いているが、こんな都市は東京とニューヨークだけ)、今年はオペラとオケでダブル滞在をする楽員が少なからずいることになる。10月初旬でメータ率いるフィルハーモニカーの日本公演は終わり、チョン・ミョンフン指揮でソウル公演などを挟みつつ(!)すぐにオペラ・カンパニーに早変わりする。オペラとシンフォニーが両輪たること―これはカラヤンの言葉で、直接は関係ないが―激務ではあろうが、これこそがウィーンがウィーンたる所以でもあるに違いない。

今回の来日公演は音楽監督を伴わず(前任者のフランツ・ウェルザー=メストは2014年9月に突如辞任)行われた。結果的に個性の異なる3人のマエストロが登場することになったわけだが、その中でもマレク・ヤノフスキは意外だ。レジーテアターでのオペラ上演を嫌い、もっぱら演奏会形式上演で様々な作品を指揮してきた彼だが、2016年・17年、バイロイトでのカストロフ・リングで舞台上演に復帰。そして次のプロダクションがこのウィーン引っ越し公演での「アリアドネ」になるようだ。今回の公演は日本限定で、ヤノフスキがウィーン国立歌劇場でオペラを振るのは25年ぶりらしい。円熟のリッカルド・ムーティ率いる若手歌手陣による「フィガロ」も日本公演用であるから、結果的にこの歌劇場のリアルな形をそのままに伝えてくれるのはアダム・フィッシャーの「ヴァルキューレ」ということになる。これを観られないのがなんとも痛恨(→観られた!)。 ただ「アリアドネ」は大半が歌劇場のアンサンブルメンバーにより演じられるのでよい。

前置きが長くなった。
「ナクソス島のアリアドネ」は劇中劇として上演されるオペラ・セリア(悲劇的オペラ)のタイトルであり、この作品と喜劇(コンメディア・デッラルテ)「浮気なツェルビネッタと4人の恋人達」を同時に上演し、9時に始まる花火に間に合わせよ、という主人による無理な注文が前半プロローグのドタバタの原因となっているわけだ。後半ではその実際の上演が繰り広げられる。
ベヒトルフは2012年のザルツブルク音楽祭において、1912年の初稿版に基づく演出を制作している。(ベヒトルフはこの音楽祭の演劇部門総監督の任にあるのだ)そしてザルツブルクでの上演の4ヶ月後、ウィーン国立歌劇場で1916年の改訂版の演出をつくっているわけだが―前者の「初稿版」における発想が改訂版演出でも大前提となっているということは、想像に難くない。
この作品はいかにもメタフィクション的であるが、ベヒトルフの演出はその側面を更に強調している。1910年代のモダニズム的な色彩、最後に降りてくるスワロフスキーのシャンデリアの輝かしさもさることながら、オペラで舞台後方に客席が設けられ、上流貴族がそれを愉しんでいるのが最大の特徴だ。この「客席」からは次に登場する役者達も降りてくるし、観る者は視点をあたふたと移動させながら展開を追うことになる。いわば「観客」は劇中の「観客」に見られているわけで、舞台を介して自らも当事者であるような錯覚すら覚えるではないか!
序幕で登場した作曲家がツェルビネッタの伴奏を弾いているのは、幕切れで2人が結ばれることを思えば実に粋な見せ方だし、バッカスとアリアドネの悲壮感すら漂う―少しヴァーグナーふうの―愛とその壮烈な音楽との鮮烈な対比も強まっている。序幕・オペラともに、真面目さにおふざけが貫入して両者を引き立たせ合うこの作品と演出のコンセプトを味わううちに、この相反する二要素はどちらも人間の両面なのだと強く感じる。シュトラウスとホーフマンスタールのメッセージはいつまでも色褪せない。

ベヒトルフの演出について散々書いたが、やはり何より最も美しく瀟洒たるはシュトラウスの音楽であった。「ばらの騎士」の巨大な音楽を作り上げた作曲家が敢えて36人という最小編成を採ったこと、またオペラで登場する3人の精霊たち、バッカスとアリアドネの長大で過酷な二重唱―これらの要素はヴァーグナーへの皮肉であり、同時にオマージュでもあるのだろう。「自分は色々な顔を持っているのだ」という表明にも感じられた。先人が築き上げてきたライトモティーフの繁茂は巧みに取り入れているあたり、敵意ではなかろう。
ヤノフスキの指揮は、既に3作品を東京で指揮した「指環」とスタンスは変わらず、辛口で厳格なもの。ウィーンとは水と油?と聴く前は思っていたが、そこは百戦錬磨の楽士たち。テンポ面ではヤノフスキに委ねつつ、ソロの美しさでは自らの持ち味を存分に聴かせて至る所で滴るような美音を聴かせていた。 
最後になってしまったが、歌手陣も素晴らしかった。敢えて言えば交代になったバッカスと作曲家がずば抜けてよかったのだが、その他のキャストもほぼこの歌劇場のアンサンブル・メンバーであり、序幕・オペラともに上質なドイツ語の節回しとアンサンブルで終始魅了された。序幕での執事長の演劇性も忘れられない。バッカスのグールドは新国立劇場「ヴァルキューレ」に続き、台北で「大地の歌」を挟んでの(!)登板で、高域の輝かしさで当代随一のヘルデンを見せ付けた。当初キャスティングされていたヨハン・ボータの急逝は本当に残念。カサロヴァから変更になった作曲家のハウツィールはモーツァルト然とした奔放さで魅せた。この二人以外では、東京でもおなじみのマルクス・アイヒェ演じる音楽教師が役の性格によく合致していた。(都響で『青ひげ』を歌った時はヤサ男過ぎるように思ったのだが、今回は文句なし)

作品の持つほろ苦い味わいを心ゆくまで味わえた上演だった。ヤノフスキの舞台上演復帰が「指環」とこの 「アリアドネ」というのは対極的で面白いが、彼の指揮はどちらも素晴らしい。改訂版初演から100年の節目における「アリアドネ」対決、まずは第一弾に大満足した。果たして二期会@日生劇場はどうなるか。