2017/1/29
NHK交響楽団 第1855回定期公演 Aプログラム
@NHKホール

マルティヌー:リディツェへの追悼(1943)
フサ:プラハ1968年のための音楽(管弦楽版/1969)

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
~ソリスト・アンコール~
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より 第4楽章

ヴァイオリン:クリストフ・バラーティ
管弦楽:NHK交響楽団
コンサートマスター:伊藤亮太郎
指揮:下野竜也
 
広響音楽総監督に就任するため、長らく続いた読響での任期も今季で終了―在京オケでは今後聴く機会が少なくなってしまう下野さん。今や日本を代表するマエストロの一人となられたが、今回のN響の客演もまた、氏のプログラミングの冴え・演奏の見事さを鮮烈に印象付けた。

前半と後半で違う演奏会のようにカラーが異なるが、それはともかくとして3曲とも優れた演奏だった。    
一曲目のマルティヌー「リディツェへの追悼」は、ヒトラーの指令により壊滅させられたチェコのリディツェ村への追悼の作品だ。リディツエ村を襲った災禍は、ボヘミア・モラヴィア保護領副総督として赴任していたナチ高官のラインハルト・ハイドリヒが、ロンドンに亡命していたチェコ・スロヴァキア政府により暗殺された事件(エンスラポイド作戦)に端を発する。 党の重要人物だったハイドリヒを失ったヒトラーは、報復としてリディツェ村とレジャーキ村を完全に破壊したのである。マルティヌーの楽曲は事件の翌年1943年の作曲で、しめやかに始まり内側の悲痛な感情が徐々に増幅され、終盤に登場するベートーヴェン「交響曲第5番」のあの運命動機で頂点を迎える。N響の重厚な弦が唸りをあげた。ちなみに、都響の首席客演指揮者のフルシャも、就任披露定期においてチェコの歴史と結びつけた文脈で同曲を取り上げていた―というより、歴史と不可分な要素をもつ曲なのかもしれないが。 

リディツェの悲劇から二十余年経った1968年、チェコでは共産党自らによる内部改革が行われようとした。時の第一書記ドゥプチェクが掲げた「人間の顔をした社会主義」という改革路線は、同年8月のワルシャワ条約機構軍(実質はほぼソ連軍だとされる)の介入により頓挫を余儀なくされた。これを正当化したのが所謂「ブレジネフ・ドクトリン」というやつである。この事件に対してカレル・フサが芸術家として返答した作品が、二曲目の「プラハ1968年のための音楽」というわけだ。元々オリジナルは吹奏楽版で(しかもメジャー・ピースだ)、管弦楽版を耳にする機会は決して多くない。ドヴォルジャークの序曲「フス教徒」、スメタナ「我が祖国」の後半2曲でも用いられた有名なフス派の聖歌がティンパニにより強弱自在に用いられ、第4曲「トッカータとコラール」の終結ではぐっとテンポを落としてユニゾンで奏でられる。その様は凱歌というよりは空虚なダメ押しのようであり、時代感情を今に伝えるものだと感じた。下野さんとN響の演奏は常に冷静な視点を保ちつつ、不気味な最弱音から無慈悲なリズムの連打を伴う最強音まで共感をもって我々に届けてくれた。最後の地獄から響くようなクレッシェンドでは、普段ほとんど「煽り」を見せない下野さんが両手をブルブルと震わせとてつもない音響を炸裂させた。一点だけ、ティンパニの音程があまり精密でなかったのが惜しい。

休憩後はブラームス「ヴァイオリン協奏曲」。前半終了時に既に演奏会の終わりのような喝采が起こり、オケも下野さんを讃えるジェスチュアをしていたのでなんとなく収まりが悪いが—最後にこの名協奏曲を聴く。オケは16型から14型にやや絞られ、打楽器系はティンパニのみ。この演奏がまた下野さんらしく細部まできっちりと形作られたもので、質実なN響の弦を活かしつつ精緻に音量調節がなされている。その前提の上に考えられたフレーズの綾、反復で表情を変える技が素晴らしい。バラーティの独奏は朗々と鳴るタイプではなく線は細いが、重音が美しく響き不足なし。N響は前述の通り弦は安定だが、青山さんのオーボエが序奏で一瞬早く入るなど若干足が揃わない感も(ただ第2楽章のソロは流石にお見事)。終楽章のロンドは普通ならソリスト共々大いに盛り上がって終わるのであるが、前半の音楽を個人的に引きずってしまったのか、ナチがロマ民族にも加えた絶滅政策(ポライモス)が頭をよぎり、冷たいものが背中を流れ落ちた—ここまで下野さんの術中、とはまさか言わないが。