2018/2/3
新日本フィルハーモニー交響楽団 第583回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール 大ホール

ハイドン:交響曲第22番「哲学者」
ハイドン:交響曲第94番「驚愕」

ヘンツェ:交響曲第7番

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:豊嶋泰嗣
指揮:マルクス・シュテンツ

2月の新日本フィルの演奏会では、3シリーズを通してドイツ・オーストリアの作曲家のみが取り上げられた。期せずして、18世紀から20世紀までのドイツ音楽界をダイナミックに俯瞰するような趣となったのではないか。そのうちトパーズ、ジェイドを指揮したのは、幅広いレパートリーで活躍するドイツの指揮者マルクス・シュテンツ。NJP初登場となったトパーズでは、自身が得意とするヘンツェとハイドンを組み合わせた。

まずは前半はハイドンの交響曲が2品取り上げられた。まず会場に入って驚くのはその配置だ。ヴィオラをステージの中心に据え、低弦・ヴァイオリンを左右に振り分けた完全対向配置が採られた。いわば扇状にオーケストラが広がるような形で、独特の音響が生まれる。一曲目・交響曲第22番「哲学者」の1楽章ではホルンが舞台上手側、イングリッシュホルンが下手側にそれぞれ立って奏で、これらの管楽器の対話に低弦も呼応する。通奏低音的に管を支える弦の動きを視覚化したような趣すらあるではないか。この斬新な配置により、合奏協奏曲の延長としての作品像が明確に印象付けられたのである。続く交響曲第94番「驚愕」は第22番より約30年も後の作曲で、そこにはバロックの延長としてのハイドン像はもはや見られない。トゥッティの堂々たる響きの向こう側には、ベートーヴェン以降すら予見されるのだ。この作品で特に有名な第2楽章では小芝居が盛り込まれた。楽章が始まるとティンパニ奏者がこっくりこっくりと居眠りを始め、それを見かねた下手側のコントラバス奏者が駆け寄って例の強奏箇所でティンパニを叩いて驚かすというものだ。これはなかなか粋であった。だが、本当に「驚愕」だったのはシュテンツの指揮する音楽そのもので、自在なフレーズ造形や絶妙なパウゼ等、膨大な情報量の演奏には舌を巻くばかりだ。ハイドンの2作品の対比は、鮮やかに成功した。 

後半はガラリと変わり、ヘンツェの「交響曲第7番」。オーケストラは16型の通常配置となる。ステージの後方に所狭しと並ぶ金属打楽器が生む熾烈な響きは作曲家の語法であるが、楽曲の構成はあくまでベートーヴェン以降の交響曲の伝統にのっとっている。石川亮子氏のプログラムによれば、ヘンツェ自身も「ドイツ的な交響曲」を意識しているようだ。前半のハイドンの開放的な音楽とは真逆と言ってよく、鬱屈たる想念が全編に渦巻くが、シュテンツはそれらをも確かな秩序の下に置く。セクション間のバランスは丁寧に彫琢され、後半―精神を病み塔に閉じこもったヘルダーリンとの関連が示唆される―にあっても確かな流れが保たれる。(数日前に見学した公開リハーサルでも時間をかけて声部のバランスを調整する姿が印象的だった)美醜が矛盾する同居する交錯した世界はマーラーやショスタコーヴィチにも通ずるが、ヘンツェのそれはより情報量が膨大で、情報過多な現代に生きる我々の感性に率直に訴えるものがあるように感じた。前半のハイドンと対照してドイツの「躁鬱」プロであったが、全く違った難しさを持つ作品群をここまでの水準に仕上げた指揮者の力量は恐ろしいばかりだ。新日本フィルの大健闘も目覚ましい。