2018/2/21
≪東京二期会オペラ劇場公演≫
リヒャルト・ワーグナー 『ローエングリン』オペラ全3幕
@東京文化会館 大ホール

ヴァーグナー:歌劇「ローエングリン」(全3幕/ドイツ語上演/字幕付)

演出:深作健太
ハインリヒ・デア・フォーグラー:小鉄和広(バス)
ローエングリン:福井敬(テノール)
エルザ・フォン・ブラバント:林正子(ソプラノ)
フリードリヒ・フォン・テルラムント:大沼徹(バリトン)
オルトルート:中村真紀(ソプラノ)
王の伝令:友清崇(バリトン)
4人のブラバントの貴族:
吉田連、鹿野浩史(テノール)、勝村大城(バリトン)、清水宏樹(バス・バリトン)
ローエングリン(青年時代):丸山敦史
ゴットフリート:黒尾怜央
合唱:二期会合唱団
管弦楽:東京都交響楽団
指揮:準・メルクル

東京二期会の「ローエングリン」を観た。2015年のR.シュトラウス「ダナエの愛」で好評を博した深作健太(演出)×準・メルクル(指揮)のコンビによる第2弾であり、ピットには東京都交響楽団が入った。
 
二期会のHPに掲載されたインタヴューでも深作が語っている通り、今回の「ローエングリン」は読み替え演出である。基本的には以下の通りだ。大枠の舞台は建設途上のノイシュヴァンシュタイン城に移され、ローエングリンがバイエルン国王ルートヴィヒ2世に置き換えられている。そして、プロイセン国の宰相ビスマルク/ザクセン王ハインリヒ1世(小鉄和広)、バイエルン国の首相ルッツ/ハインリヒ1世の伝令(友清祟)、といった具合に、ローエングリンの周囲の人物関係も置換される。だが深作演出は単なる人物の置換に留まらず、舞台上で史実とメルヒェンが何層にも渡り交錯する。筆者は始まってしばらくは史実と舞台の整合性を追うのに必死だったのだが、途中からそれを止め、狂王と呼ばれたルートヴィヒ2世の深層心理を覗くような感覚で観劇するようにした。そうすると、深作演出の幾層にも渡る細やかな読み、ワーグナーへの深い造詣と共感が立体的に浮かび上がって来た。その演出が具体的に如何なるものだったのかを順を追って振り返ってみたい。
 
第1幕。幕が上がる前にルートヴィヒ2世の言葉が掲げられ、前奏曲が始まると舞台の後方に設置されたデジタル時計(24時間制)がカウントダウンを始める。舞台上では晩年期のルートヴィヒ2世と思わしき人物(見方によってはワーグナーその人にも見える)が「ローエングリン」のスコアを熱心に読んでいる。また、青年期(丸山敦史)や幼年期(黒尾怜央)のルートヴィヒも舞台には現れ、冒頭のデジタル時計のカウントが「回想」の暗喩であろうことが明らかになる。晩年期のルートヴィヒの後方で物語は進行してゆくが、いつの間にか彼はオペラの世界に入ってしまい、表題役ローエングリン(福井敬)と化す。物語が動き出すと上行してゆく巨大な三角の舞台装置は白鳥を表すそうだが、この演出に登場するさまざまな「3」をも示すように感じた。第3場ではエルザ(林正子)の窮地を救うべくローエングリンがテルラムント(大沼徹)と決闘するが、テルラムントが重い剣を不器用に振っているところをローエングリンが素手で、しかも一撃で倒す。冷静に考えると剣と素手ではどう考えても前者に分があるのだが、医者グッデン/テルラムントは剣の扱いに慣れていない、という読みも出来るだろうか。
 
第2幕では冒頭、いきなり白鳥の羽が無機的に上から落ちてくる。それまでにも柔らかく羽が落下する描写はあったが、これは「ローエングリン」と深い関連を持つ「パルジファル」からのオマージュであろう。舞台上手ではハインリヒや決闘に勝ったローエングリンらの一行が宴を催しており、一方下手から中央にかけては、野戦病院のような惨状が広がっている。そこには十字架が地中に刺さり、病人が息も絶え絶えに呻いている。オルトルート(中村真紀)は血まみれの看護婦の格好だ。死臭漂う光景は、やがて迫る戦の負の側面を示しているのだろうか。追放処分となったテルラムントはやるせない感情を隠さない。宴の一行が哀れな元「仲間」に金貨をばらまくと、それに群がる自分のしもべを殴る場面さえある。オルトルートは眼帯と槍を身につけており、この幕の終わりにはリンゴを持つ。彼女はキリスト教以前の古代の神々を信仰しているが、特にその中でも劇中で語られるヴォータンとフライアの要素との繋がりだ。なお、第2幕でも引き続き黙役の2人は随所で現れ、幻影のように描かれるのだが、妖術を司るオルトルートには彼らが「見える」ようだ(坊やを強引に追いやったりする)。
 
第3幕。華々しい前奏曲に続いて幕が開くと、鮮やかな金色の衣装に身を包んだルートヴィヒ2世/ローエングリンがエルザと共に姿を現わす。部屋には本オペラのスコアも置いてある。ここでの滑稽な衣装は、ルートヴィヒ2世が敬愛したフランスのルイ14世のオマージュである。ここでルートヴィヒ2世/ローエングリンはエルザと楽しく過ごそうとするが、第2幕でオルトルートに不安の種を植え付けられたエルザはついに禁問を破ってしまう。すると、舞台上方の三角の舞台装置から垂れていたカーテンが落下し、華やかな寝室の雰囲気は一変する。この時点で、騎士を嬉々として演じていたルートヴィヒ2世の幻想・妄想は崩れ去ってしまったのだろう。彼が「王と軍勢の前で名前を明かそう」と語ったのち、3方向から金管のファンファーレが吹き鳴らされる壮麗な場面転換となる。ここでは一旦幕が閉じられ、エルザはルートヴィヒ2世の肖像画を持って崩れ落ち、幼年期のルートヴィヒは激しく指揮の動作を行う。この場面のエルザからはルートヴィヒ2世が唯一心を許したとされる女性オーストリア皇后・エリーザベトが想起され、指揮をするルートヴィヒからは王の音楽への愛が改めて溢れ出るようだ。そして、オペラ序盤から舞台上手に存在していた模型のノイシュヴァンシュタイン城は、幼年期のルートヴィヒ自身によって壊されてしまう。これらの諸要素は、エルザが誓いを破った瞬間から連鎖反応のようにルートヴィヒ2世の幻想の世界が崩れ去ったことを暗示しているのだ。ローエングリンは拘束衣を着せられて衆目に晒される。筋書き通りなら既に死んでいるテルラムントは深作演出では生きていて、医師グッデンとしてルートヴィヒ2世/ローエングリンの追放に最後まで加担するのだ。名高い「グラール語り」で騎士の名は明らかとなり、舞台上方のデジタル時計の時間がタイムアップ。そして異邦人の追放に成功したオルトルートが呪いを口走ると、ローエングリンを迎えにやってきた白鳥がゴットフリートに姿を変え、彼女は崩れ落ちる(通常通りだ)。だがこの瞬間から、0になったデジタル時計が今度は1秒、2秒と新たに時を刻み始める。これは一体、何を意味するのだろう。様々な解釈が可能だろうが、筆者は以下のように受け取った。民衆をこれから率いてゆくのは、どこからともなく現れた英雄ローエングリンでも、彼の排斥に尽力したテルラムント/オルトルートでもなく、次の世代=ゴットフリートであると。歴史はここから新しく刻まれてゆくのだと。深作演出の置き換えだと当然19世紀のバイエルン国の後継者がこの少年になるわけだが、彼に対する„Führer“(総統)という呼び掛けは、20世紀の歴史を考えてみれば不穏な趣を残す。
 
深作健太の演出について既に相当量の字数を費やしてしまったが、これ以外にもいくつものオマージュや暗喩が舞台上には散りばめられていた。情報量の多さという点以外にも、エルザの青・オルトルートの赤の鮮やかな対比や、卓越したコロスの扱い、繊細な照明効果等、総合的に完成度の高い舞台だった。何より、幻想的な雰囲気を身にまとう(ワーグナーの音楽がそう聴き手に訴えかける!)ローエングリンを「英雄」と決め付けず、素性の知れぬ彼を警戒するオルトルートやテルラムントの側に観る者を共感させる采配は説得力がある。単純な二元論は禁物なのだ。今後是非再演を重ねて欲しいと切に願う。
最後になってしまうが音楽面についても触れたい。コンサート・オーケストラである東京都交響楽団(以下都響)のピットは快速テンポながら上滑りせず、弦は弾力をもって歌い、管は鮮やかに鳴らす。ワーグナー作品の演奏においてはN響、読響がわが国では評価を確立しつつあるが、都響も全く引けをとらない。特に第1幕の前奏曲での弦の密度と瑞々しい歌い口は絶賛に値するものだ。二期会の安定した合唱との鳴らし方のバランスも良好で、準・メルクルが優れた手腕を示したといえる。演技にも大きなエネルギーを必要とする深作演出だが、歌い手はみな健闘していた。特にオルトルートの中村真紀はこの恐るべき役をあくまで理知的に描き、テルラムントの大沼徹は苛立ち、焦る人物像を底光りする美声で演じた。伝令の友清崇もドイツ語の捌きが的確に届き好印象。エルザの林正子、ハインリヒの小鉄和広はやや声質と役柄の求める声の齟齬を感じ、本来の美質が生きてこないもどかしさを感じた。ローエングリンの福井敬は以前の二期会「トリスタンとイゾルデ」のトリスタン役同様、禁問を破ろうとするエルザとの苦悶に充ちたやり取りで凄みを感じさせた。しかしながら、演出とピットが「21世紀最新のオペラ上演」に相応しい繊細さと情報量の多さだったのに比べると、歌唱面には全体的に物足りなさが募ったというのが正直な感想だ。