2018/3/31
東京都交響楽団 都響スペシャル
@ミューザ川崎シンフォニーホール

シューベルト:交響曲第7番「未完成」
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:エリアフ・インバル

都響インバル月間の締め括りは、ロ短調により書かれた2つの未完成交響曲を並べたプログラム。インバルは意外にも都響で「悲愴」を指揮したことがないという。湾岸戦争と時期が重なり、「トリスタンとイゾルデ」とのカップリングで録られたフランクフルト放送響との録音は今なお色褪せない名盤だと思っているのだが―今のインバルはどう紡ぐのか。

シューベルト「未完成」(こちらも都響では21年ぶりの再演だという)は14型の編成、以前取り上げた「グレイト」が16型倍管という威容による演奏だったことを思えばまだ大人しいのだろう。インバルは暗譜で、フレーズの綾を細かく雄弁に先振りしていく様子に長年の経験が滲む。それほど音量を絞るではないが、きわめて静謐に奏でられた冒頭主題に始まり、音楽は落ち着いた流れで進んでゆく。一転、淑やかな第2主題は意味ありげな弱音(昔のインバルであればここに静かな狂気が滲む、とでも言いたくなるのだが、近年の彼にはあまりそういった怖さは感じない)で歌われる。この対比も鮮やかだ。決然と終えられた第1楽章に続き、第2楽章はやはり淡々と歩みながらも愛おしげに旋律を愛でてゆく。弦の絶妙な手触りと、そこに同化して和音を美しくかたどる木管の静かな妙技にも唸るばかりだ。終結のAdieu(アデュー)の後ろ髪を引かれるような表情は、インバルならではのものだろう。滋味深い演奏だった。

後半はチャイコフスキーの「悲愴」(こちらは楽譜を置く)。自分はこのプログラムを2日連続で聴いたのだが、1日目の芸術劇場公演に比べて躍進があったのが後半の方だ。前半楽章のフォーカスが甘く、オケの集中力も若干欠くように思えたのだが、ミューザ公演ではそういった不満は霧散した。合奏の緊密さが昨日より向上したことに加え、ミューザの明晰な音響も加味されてインバルの巧みな構造抽出もより意味を持つ。そこに鬼神の如き没入が両立されれば、稀有な音楽体験は約束されたようなものだ。厳しく音楽を型取り、揺るぎない骨格を与えるのは指揮者の得意技であるが、チャイコフスキーにおいては情緒的に流れるのを殊更避けているのでは、と思えなくもない(以前の第4番・第5番でも同じことを感じた)。第1楽章の第2主題導入部など、多くの指揮者がここぞと襞を作りたっぷりと歌わせたがる箇所だが、インバルは速いテンポを保ちその中で節度を持って歌う。一方で展開部は轟々と進み、第1主題がトゥッティの最大音量で再現される箇所では思い切りテンポを落として聴衆に「ここを聴け!」とばかりに音楽を叩き込む。この強烈なアゴーギクは第3楽章でも現れ、行進曲が高潮の頂点を迎える箇所で金管をベタ吹き気味にさせ、最後の力を振り絞るかのようにテンポを落として歩むのだ。そして楽章終結では再びテンポを戻してゆく。このような楽曲の構造中の一部をデフォルメする技の一方で、動機断片の連続性にもインバルは神経を尖らせていた。第2楽章の「踊れない」舞踏をしなやかに進めるだけでなく、弦の呼吸も強弱を取り混ぜて細やかに形作っていたし、第3楽章では同一のリズム音型を奏でる木管を次々と際立たせてリレーのように音楽を繋いだ。続いて現れる弦の主題は音の粒立ちをはっきりと弾かせていたのが印象的だった。こうした数々の技を経て辿り着いた終楽章—の直前で腑抜けたブラヴォーが飛んだのは痛恨であったが—では、渾身の弦がミューザの広大な音場をびっしりと慟哭で埋め尽くす。チャイコフスキー「悲愴」の楽章構成はマーラー第9番とほぼ同じであるが、まさに私はこの楽章で、彼がプリンシパル退任時に指揮した同曲を思い浮かべていた。都響の弦の密度が最大限にまで高められ、比類ない緊張状態が続いたままで終局へ向かう様—これはもう、言葉では語りつくせるものではない。ただただその奔流に呑まれ、気がつけば弔いの鐘が鳴り、低弦が厳しく最期を告げるのみだ。

82歳のインバルが紡いだロ短調プロは、厳しくも豊かな内容を湛えた彼ならではのものだった。ミューザの聴衆も熱烈に応じ、ソロ・カーテンコールで最後は送られた。次にインバルが還ってくるのは1年後であるが、ますます精力的な演奏を楽しみに待ちたい。なお、この都響客演後に行われたシンガポール響との演奏についても、こちらでレポートを記した。宜しければご覧ください。