2021/01/06
サン=サーンス没後100周年記念公演 〈東京二期会コンチェルタンテ・シリーズ〉
サムソンとデリラ〈新制作/セミ・ステージ形式上演〉
@Bunkamuraオーチャードホール

サン=サーンス:歌劇『サムソンとダリラ』(全3幕/日本語字幕付き/フランス語上演)

ダリラ:池田香織(メゾ・ソプラノ)
サムソン:福井敬(テノール)
ダゴンの大司祭:小森輝彦(バリトン)
アビメレク:ジョンハオ(バス)
老ヘブライ人:妻屋秀和(バス)
ペリシテ人の使者:伊藤潤(テノール)
第1のペリシテ人:市川浩平(バリトン)
第2のペリシテ人:高崎翔平(バス)
合唱:二期会合唱団(合唱指揮:大島義彰)
音楽アシスタント:佐藤正浩
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:マキシム・パスカル
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二期会『サムソンとダリラ』セミ・ステージ上演を観た。この公演は元々昨年4月に準・メルクルの指揮で予定されていたが、緊急事態宣言―本日にも再発出と報じられている―により延期を余儀なくされ、指揮者はジェレミー・ローレルに交代。更に入国制限の影響でローレルの来日も叶わなくなり、読響と名フィル公演のため既に来日済だった俊英マキシム・パスカルが急遽滞在を延長。なんとか開催にこぎ着けたという運びだ。公演実現に尽力された関係者各位の苦労は計り知れない。

異なるキャストによる2日公演を両方観たが、両日ともまずはマキシム・パスカルのセンスに舌を巻いた。彼にとって今回がこのオペラへの初挑戦であり、音楽アシスタントとして4年前芸劇のコンサートオペラで指揮した経験を持ち、フランス語にも堪能な佐藤正浩がアドヴァイスを行いパスカルを支えたという(これに限った話ではないが、オペラ公演はカーテンコールに出ない多くのスタッフも舞台を支えている)。以前パスカルが二期会『金閣寺』公演を指揮した際も、既存の作品解釈に縛られない独自の、かつ説得力あるスコアの読みに痺れたが、今回も新鮮な感銘を受けた。

彼の解釈に言及する前に、『サムソンとダリラ』はグラントペラ(grand opéra)なのか、ということを考えてみたい。例えば同じサン=サーンスでも後年に成立した『アンリ8世』(1883年)は、時期こそ全盛期からかなり後ろにずれ込んでいるが、よりグラントペラとしての側面が強い。その点、『サムソンとダリラ』はグラントペラの典型的な特徴(歴史的題材、バレエ、大規模な舞台装置)も含んでいるが、ヴァーグナーの示導動機からの影響や後年のドビュッシーを予見するような要素(詳細後述)をも内包しており、ジャンルとしてはグラントペラなのは間違いないだろうが、作品解釈には多くの可能性を秘めているだろう。
そして初振りのマキシム・パスカルは、この作品の表層的な迫力よりも、人物の対話における繊細な心理描写に意味を見出していた。特に第2幕、ダリラと大司祭、続くサムソンとダリラの対話における管弦楽と言葉の緊密な交わりは、この場面が25年後に成立するドビュッシー『ペレアスとメリザンド』の先取りであったことを明らかにした(本人曰く、実際『ペレアス』をイメージしたらしい)。パスカルは全体の響きを曖昧模糊とさせず、しかし音楽を力で押すことはしない。木管や弦の重ね方は神経質でさえあり、合唱の控えめで静謐な鳴らし方はこの作品が当初オラトリオとして構想されたという史実を思い起こさせる。一方で重い石臼を表す第3幕冒頭の弦はしっかりと弾かせ、『バッカナール』は常軌を逸したような狂乱にまで達して強烈に印象付ける。この鮮烈な対比には目をみはった。東フィルも特に2日目は柔軟に応じていた。

歌手の中でパスカルの方向性に徹頭徹尾寄り添っていたのがダリラの池田香織だ。何と言ってもまず声と舞台姿にそもそも非凡な艶と存在感があり、現れるだけで空気を変えてしまう。そして紡がれる歌には見事なディクションが伴っているのだ。彼女のフランス語はオペラシティのサーリアホ『遥かなる愛』初演でも既に輝いていたが、今日は当方の高い期待を更に軽々と超えてきた。この水準で言葉を紡げる歌手が他に日本に何人いるか…と思ってしまう。京響での『カルメン』抜粋で彼女のカルメンも聴いたことがあるが、ファムファタル的側面で厚塗りされがちなこの役柄に先入観無しで向き合い、妖艶さを振りまきつつも美しく語っていたので是非舞台上演で接したいところである。近年ひろく知られることになったヴァーグナーをはじめとするドイツ物に限らず、イタリア物であってもフランス物であっても、言葉と歌が決して乖離しないのが彼女の最大の強みなのだ。
他の歌手の中では、4年前の芸劇でも同役を歌った老ヘブライ人の妻屋秀和が出番は少ないが安定していた。サムソンの福井敬は最後の大見せ場まで声を配分しつつ持っていく技術は成程ヴェテランの腕だが、言葉には不満がある。大司祭は4年前の甲斐栄次郎を懐かしく思い出した・・・。だが、おしなべて池田以外の歌手は「グラントペラ」ではなく、英語の「グランドオペラ(Grand Opera)」の側面に傾いていたと思える。本来の語義であるオペラの1ジャンルとしての「グラントペラ」でなく、後に広義化されて用いられるようになった「グランドオペラ」のイメージの方だ。だが、パスカルはそうした派手さや壮大さではなく、より内省的な音楽を志向した。その間の齟齬が終始気になりながら聴いていた。尤も、グラントペラの代表的作曲家であるマイアベーアの作品もほぼ掛からない我が国においてはその様式感自体がイメージされ難いのであろうが―。21世紀に入り欧州では盛んにグラントペラの作曲家の復権が進んでいるが、そろそろ日本にもその風が舞い込んでも良いのではないか。

最後に一点演出について。二期会のこのシリーズに限らず、日本では演奏会形式と銘打ちつつ実際は映像演出がかなりご丁寧についていることが多い。それが音楽や上演と緊密に結びついているのなら不満はないのだが、今回は悲惨だった。サムソンが神殿を崩落させるとき、文革やBLM(Black Lives Matter)、非暴力・非服従といったキーワードを連想させる歴史上の人物が矢継ぎ早に出てくる。これらはその瞬間まで何一つ舞台とも紐付けられていない。あまりにもお粗末だ。これで時事性を獲得したなどと思っているのなら、それは大きな間違いであろう。