2020/01/24
京都市交響楽団 第652回定期演奏会
@京都コンサートホール 大ホール

ベートーヴェン:交響曲第4番
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

管弦楽:京都市交響楽団
コンサートマスター:泉原隆志
指揮:高関健

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前日の関西フィルと組み合わせる形で一泊し、翌日京響を聴きに。こちらも入国制限により当初予定された指揮者のスラドコフスキーが来日不可能となり、オーケストラとの縁も深い高関健がシンフォニー2曲を取り上げた。(ご本人曰く「ムラヴィンスキー・プログラム」らしい。確かに!)

実演で接するのは2年前夏の『天地創造』以来の京響、まずベートーヴェンの序奏の質感や奥行きを聴いて「ああやはり巧いなあ」と。端正でどのセクションもバランスが取れており、突出しない美質はベートーヴェン『交響曲第4番』のような曲にピッタリだ。主部に入ってからの疾走は編成(14型+コントラバス1台)故に充分な重量感があるが、声部の出し入れが鮮やかなので響きがだぶつかない。舞台正面後方、ポディウム席の前にずらりと並んだコントラバス7台が磐石のベースを作ったのも大きいだろう。シュネラーのティンパニも抜群の相性を示した。特に感銘を受けたのは第1楽章展開部、フルート・ソロ直前の第1ヴァイオリンとチェロの掛け合いだった。初めて聴いたかのように新鮮に聴こえた。あまりに速くしすぎると終盤ファゴット奏者が大変なことになる第4楽章も、中庸よりほんの少し快速くらいで締め括る。

後半ショスタコーヴィチ『交響曲第5番』は更なる聴きものだった。直情的なアプローチとは対極をゆく。クールな知の光で隅々まで照らしているにも拘らず、その隙間から人間の生々しい表情が少なからず漏れ出てくるのが非常にショスタコーヴィチらしい。
第1楽章、120小節からホルンが警鐘を鳴らし始めると巧みにテンポも上げられ、大管弦楽が一つの暴力装置と化したかのように突き進んでゆく。188小節の行進曲はサーカスティックな側面が強調され、壊れた機械人形のように無表情に拍子を振る指揮からもそれは明らかだ。楽章の頂点を引き摺るティンパニのリズムとトロンボーン&テューバのff(253小節)は強烈。ティンパニのAはダブルのマレットで鉄槌の如く刻まれた(譜例↓)。ちなみにこの譜例のヘ音記号の方は鳴らしに鳴らす低音金管群だが、楽器の前に置かれた巨大なアクリル板の影響かやや一枚膜を介したようなサウンドに聴こえた。少し板がビリついたような音も聴こえたように思ったが、気の所為か―。なかなかコロナ禍の舞台セッティングは難しそうだ。

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第2楽章は指揮者と正対するコントラバスとチェロが冒頭から強力。再び戯画性も強調されつつ、しかし自暴自棄な怒りが勝るような運びの中に閉じられた。第3楽章は京響自慢の弦が活きた(ディヴィジについてはあまり処理がわからなかったのだが)。頂点の慟哭に続く156小節からの表情を押し殺した、薄氷を踏むようなppの連続でも音が痩せず、美しい。一方序盤、雄弁なパニヒダ(62小節)は素晴らしかったのだがその直後の79小節で低弦がバラけてしまったのはおやという感じ。京響でもこんなことがあるのだなあ。
第4楽章では楽譜指定の通り徐々に加速していくその造形がお手本のよう。猛烈に熱量を増す中で少々瑕もあったが、全弓で渾身のAを刻み付ける弦、楽章冒頭『カルメン』ハバネラ旋律が長調に転じた金管(A-D-E-Fis)のどちらが聴こえすぎるでもなく、理想的な調和で鳴ると、「やはりいいオーケストラだなあ」という冒頭の感慨に戻ってしまった(苦笑)。

高関健がスコア研究の鬼であることは昔から変わらないだろうが、その緻密な分析の一方音楽自体がやたらと研究発表のように味気なく感じられた頃も一時期あったのだが─今は実演ならではの高揚感がよいバランスで同居しているように思える。今回もそうだった。(尤も、こちらの聴き方の変化かもしれないが)そして京響も相変わらずの充実が嬉しいし、気持ち距離は広めにとりつつも14型以上という編成で交響曲2曲を聴けたことが嬉しかった。コロナ禍における在京オケの編成復調の状況はホールや楽団によってまちまちだ。第1ヴァイオリンは12人でも低音を増強することでバランスを補強しているようなケースもあるが、可能であればやはりロマン派以降のオーケストラ作品は14型規模で聴きたいなあと改めて思った公演でもあった。楽屋の密など問題は山積だろうが、少しずつ状況が好転しますように。