たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

November 2012

2012年11月8日(木) 18時30分開演 @愛知県芸術劇場大ホール

第30回名古屋クラシックフェスティバル ソフィア国立歌劇場

マスカーニ:歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」(全1幕)

演出:プラーメン・カルターロフ
サントゥッツァ:ゲルガナ・リュスコヴァ
トゥリッドゥ:コスタディン・アンドレーエフ
ルチア:ルミヤーナ・ペドロヴァ
アルフィオ:プラーメン・ディミトロフ
ローラ:ツヴェタ・サランベリエヴァ


プッチーニ:歌劇「ジャンニ・スキッキ」(全1幕)

演出:プラーメン・カルターロフ
ジャンニ・スキッキ:ウラディーミル・サムソノフ
ラウレッタ:シルヴィア・テネヴァ
ツィータ:ルミャーナ・ペドロヴァ
リヌッチョ:キリル・シャバーノフ


合唱:ソフィア国立歌劇場合唱団
管弦楽:ソフィア国立歌劇場管弦楽団
指揮:アレッサンドロ・サンジョルジ(カヴァレリア・ルスティカーナ)
   ヴェリザル・ゲンチェフ(ジャンニ・スキッキ)


ひょんなことから、ソフィア国立歌劇場というオペラハウスの名古屋公演を観て来ました。
学生席で、5階天井桟敷での鑑賞。オケは全く視界に入らない位置でした。

オペラは昨年のサイトウ・キネンでの「青ひげ公の城」以来で、また全く馴染みの無い演目でしたので、飽きてしまうかと思いましたが・・・そんな心配は杞憂に終わり、楽しむことが出来ました。

今回の演目は「カヴァレリア・ルスティカーナ」「ジャンニ・スキッキ」。前者は「間奏曲」、後者はアリア「私のお父さん」と、どちらもそれぞれ広く知られた名曲を持ちつつ、その短さゆえになかなか生で聴く機会には恵まれないのではないでしょうか。

先述したように、私はコンサートほどはオペラに馴染みがありませんので、詳細なレヴューを書くことは出来ませんが、振り返ってみると、なかなか良い上演だったと思います。少なくとも学生席の値段なら十分にお釣りが来ます。

まず演出。東欧の経済状況から想像するイメージを差し引いても、お世辞にも豪華とは言えず、経営状況が楽でないことを窺わせるものでした。(例えば、「カヴァレリア」で皆が杯を交わす場面では、合唱団が2つに分かれて両袖から現れるところが、合唱団は1つだけでした)
しかし、総裁の重責を担うカルターロフ氏は実にオーソドックス・簡潔に舞台を作っており、両オペラともに極めて内容が世俗的ということもあって、普通に観る分には特に違和感を感じることはありませんでした。(「トスカ」だと分かりませんが・・・)

続いて音楽面。総じて充実。オーケストラは音色は素朴ながら安定しており、前半の有名な間奏曲は艶やかな弦に聴き惚れました。また、後半ではホルンが雄弁な演奏を聴かせ、舞台上で繰り広げられるドタバタを際立たせており、好感を持ちました。
ソリストは、キャスト表を見る限りではほぼ全員ブルガリア出身のようですが、皆大変馬力のある歌唱。過去に名歌手を輩出、というのは売り文句として割り切るべきですが、前半のテノールをはじめよく通る声で魅了しました。ただ細部の磨き上げには期待するべきではなかったようです。

最後に、終演後のカーテンコールはかなりドタバタしており、無秩序なものでしたが、ヨーロッパの歌劇場は皆こんなものなのでしょうか?それともこの団体だけなのでしょうか。いずれにしても、かなり田舎臭い感じがしました。
今回初めて本格的なイタリア・オペラを生で観た(以前「フィガロ」は観ました)のですが、やはり質実剛健なドイツ物の方が好きかもしれません・・・。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、全編が血生臭い話。あの間奏曲を挿入することで、続く決闘のシーンを際立たせる狙いなのかと推察しますが、かえって間奏曲の美しさが際立ってしまっています(笑)
また、「ジャンニ・スキッキ」には全く共感できず。ダンテの「神曲」を読もうかな、という気にはなれましたが。

まあ、初めから食わず嫌いせず、これからも聴いていこうと思います。

2012年11月3日(土) 13:20開場 14:00開演 @東京芸術劇場 コンサートホール

「作曲家の肖像」シリーズVol.90《マーラー》

マーラー:歌曲集「少年の不思議な角笛」より
 死んだ鼓手
 むだな骨折り
 番兵の夜の歌
 この歌を作ったのは誰?
 高き知性をたたえて
 塔の中の囚人の歌
---休憩---
マーラー:交響曲第4番

バリトン:河野克典
ソプラノ:森麻季
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:エリアフ・インバル


マーラーの4番は難しい作品。
以前からぼんやりとした認識はありましたが、今回改めてその思いを強くしました。
室内楽的な要素を大編成で再現することが
弾き手には求められ、聴き手は多様な思いに頭を悩ませることとなります(笑)


まず前半の「少年の不思議な角笛」抜粋。
開演前に歌詞を読みましたが、いやもう俗っぽいなどという言葉では済まされませんね。
戦場の血肉の生臭さに銃弾の焦げるような臭い、またレントラー風の曲からも高貴さは微塵も感じられません。シューベルトらの歌曲に慣れた当時の聴衆はさぞ憤慨したのではないでしょうか。

独唱の河野氏はマーラー歌曲の解釈に定評があり、N響との共演でCDも出しています。
今回、ドイツ語が明晰に聴き取れ、優れた歌唱ではあったと思うのですが、いかんせんホールが広く、やや損をしたかなという感があります。また楽譜を見ながら歌われていたので、あまり声が飛んでこなかったということもあるでしょう。
対するオケは伴奏というレヴェルを遥かに超えて素晴らしい。インバルは河野氏に敏感に反応しながらオケをコントロールしながらも、マーラー特有のアイロニカルな表情を巧みに浮き上がらせます。決して煽らず、緻密な演奏ながらも強い説得力がありました。西川氏のスネアもキレキレ。

休憩をはさんでの4番です。

結論からになりますが、演奏会を聴き終えて初めて、このプログラミングの妙に唸らせられました。「角笛」の関連は勿論なのですが、それ以上にこの2曲を続けて聴くことに意義があったと思うのです。
4番は一聴すると大変美しい曲なのですが、随所に地獄がぽっかりと口を開いているような不気味さが潜んでいるということが知られています。この作品の前に「角笛」のグロテスクを味わっておくことで、4番の悪魔的要素が際立つだけでなく、この世のものとは思えぬ美しい箇所ですら、天使に扮した悪魔の囁きではないかという一つの疑念が浮き上がります。
こうなってしまうと、もはやただの美演として聴くことはできませんでした。都響が繊細に音を紡げば紡ぐほど、直感的な感動と身震いするような恐怖が同時に体に押し寄せるのです。
実に貴重な経験でありました。そしてこれこそが、インバルが指摘するところの、「泣きながら笑うしかない」表情を持つマーラーの素顔ではないでしょうか。

勿論このような勝手な聴き方を許容してくれたのも彼らの演奏が本当に素晴らしかったからです。前回の3番でも圧倒的な完成度を誇っていましたが、今回またレヴェルが上がってしまったといっていいと思います。聴衆の期待が必然的に高まる中、軽々とその期待を超えた演奏を披露するインバル/都響、まさに空前のコンビです。

また、久々のカムバックで存分に美音を聴かせたオーボエの本間氏(ウィンナ・オーボエを思わせるしっとりとした音色!)をはじめ、各ソロは当たり前のように高水準。コンマス矢部氏のスコルダトゥーラも見事でしたし、フルートも聴衆を異世界へ誘いました。
何より見事なのが弦楽セクション!圧倒的な繊細さを誇る都響の弦の真骨頂でした。インバルの変幻自在なテンポ変化への一糸乱れぬ対応に、甘いポルタメント・・・何度鳥肌が立ったか分かりません。1楽章コーダ開始のピアニッシモ、3楽章冒頭のチェロには涙が滲みました。
終楽章のソプラノも、09年の録音で聴く半田氏よりも雰囲気のある歌唱。弦と調和した音程のずり下げなど、実演で聴くと本当にとろけそうになります。また美しい黒のドレスはこの曲の多面性の暗示?考えすぎでしょうか。

終楽章、悠久の流れを思わせるイングリッシュホルンとハープが消え行った後の深い余韻が今も体の中に響いています。今日は大変聴衆の意識も高く、理想的な拍手の始まり方でした。まるで余韻が消えるのを惜しむようにパラパラと、そして盛んな喝采へ。今日はソロ・カーテンコールはなし。


さて、ひとまずこの4番で区切りとなる長期・インバル月間。1月に再び大曲・5番で新マーラー・ツィクルス第Ⅰ期の最後を飾ります。高みへ上り続けるインバル/都響、また出会えるのを心待ちにしています。(あっ、その前にはフルシャもありました。。。)

先日聴いたカンブルラン/読響のヒロシマ・声なき声を聴きながら、
ずっと頭の中をぐるぐると駆け巡っていた文章があります。

原民喜の『夏の花』。

郷里に帰省中だった作者は広島にて被爆。その経験をもとに綴られたのがこの「夏の花」です。
原爆の被害を克明に描いた文学としては筆頭に挙げられるとのこと。

この中の一節を紹介します。

・・・これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。苦悶の一瞬足掻いて硬直したらしい肢体は一種のしいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中に痙攣の図案が感じられる。だが、さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。国泰寺の大きなも根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残っている浅野図書館は屍体収容所となっていた。路はまだ処々で煙り、死臭に満ちている。川を越すたびに、橋が墜ちていないのを意外に思った。この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が
わしいようだ。・・・

・・・と、この後に片仮名による詩が続くのですが、
あの日サントリーホールに刻まれた音楽は、このような凄惨な光景を音楽で体現したということに留まらず、過去を見つめて今の世界を生き抜く手がかりを見つける、いわば温故知新的なニュアンスを含んだものであったと言えると思います。原民喜が「書き残さねばならない」と、『夏の花』を書いたのと同様、細川氏もきっと作曲家としての使命感に駆り立てられたのではないでしょうか。
東日本大震災という国家的な苦難を経た日本人が今、半世紀前に体験した苦難を振り返る。それは大変な辛さも伴うものでしたが、それでもこの過去は忘れてはいけない―ぼんやりながらも、そのような思いを抱かせてくれた公演でした。

2012年10月27日(土) 14:20開場 18:00開演 @サントリーホール 大ホール

読売日本交響楽団 第519回定期演奏会

ツェンダー:般若心経―バス・バリトンとオーケストラのための―
(読響創立50周年委嘱作品・世界初演)
---休憩---
細川俊夫:ヒロシマ・声なき声―独唱者、朗読、合唱、テープ、オーケストラのための
(東京初演)

バリトン:大久保光哉
アルト:藤井美雪
朗読:明野響香、トーマス・クラーク、谷口優人
合唱:ひろしまオペラルネッサンス合唱団
(合唱指揮:もりてつや)
コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン
管弦楽:読売日本交響楽団
指揮:シルヴァン・カンブルラン

月が変わってしまいましたが。

全曲が現代もののプロは、実は私今回が初めてでした。
にしては今回の演目はかなり重かったかなぁ・・・とも今思っているのですが、なかなかどうして興味深く聴くことができましたよ。客入りは7割程度。

まずツェンダーの「般若心経」。日本人として全く持って恥ずべきことながら、私は「般若心経」のテキストを全く存じておりません。葬式やお盆の際に祖母が読んでいるのを聞いているだけですので、今度きちんと聞いてみようかしらん。
会場に入ると、いつもとは違う配置・編成に目が向きます。ヴァイオリンを除き中低音域に特化した弦楽、両翼に配置されたボンゴそして指揮台の前に配置された2台のピアノ。1台は別に調律されていたとのこと。言われなくては気づかない(汗)。カンブルランは「もはや別の楽器」とプログラムで語っていました。
演奏は非常に洗練されたものでした。まずバリトンのメリハリが効き、かつよく響く声が心地よい。
日本人声楽家ではまれな部類に入るかもしれません。そしてオケの鋭さが抜群!全楽器が打楽器的に使われる曲でしたが、サントリーホールの豊かな音響も相まって純粋に響きの多彩さを味わいました。終演後はカンブルランが作曲家を舞台に招き入れ、盛んなカーテンコールとなりました。

そして休憩後の「ヒロシマ・声なき声」。世界的に評価を受ける作曲家・細川俊夫氏の、70分に及ぶ大作です。舞台上には溢れんばかりのオーケストラに3人のナレーター、また両翼にはスピーカー(テープ録音を再生)、そしてP席には合唱が陣取る大編成で演奏されました。
この作品を2001年に初演したのは他でもないカンブルランということで、プログラムにも作品に対する熱い思いや聴衆に期待することを寄せていましたが、実際の演奏も非常に内容の濃いものとなりました。

繰り返しますが、このテの音楽には全く明るくないので、詳細の感想を述べることはできません。しかし全曲を聴き終え、またカンブルラン指揮バイエルン放送響による初演ライヴを聴いて私が思ったのは、陳腐ですが「溢れんばかりの主張と祈り」です。

第1・2楽章を完成した後、作曲家が残りの楽章を追加し、いわば自由な形式によるカンタータともいえる作品に仕立てたということで、ツェランの詩と芭蕉の句の両方を挿入するなどの点には、若干形式的な統一感に不足すると感じましたが、当夜の演奏を聴いている間はそのような思いを抱く暇もなく、ただただホールに充たされる音楽に頭を垂れるのみでした。

カンブルランの演奏はまさに鬼気迫るとしか言いようのないもの。終演後あれほど「やった!」という表情に満ちた彼、またこの楽団のメンバーの顔を見たのは初めてでした。
特に印象に残ったのが終楽章。全体の響きがゆっくりと、そして静かな鎮魂の祈りを込めながら海に沈んでいくかのような表情で進められた終結部を聴いて、本当にこの場に居合わせられてよかったと思いました。また、あらゆるメッセージが混沌の中、多方向に向かって広がり続ける大音響地獄となる第2楽章でのカンブルランの指揮は見事としかいいようがなく、全要素を完璧に処理していました。自分の座席が2階中央の最後列だったということで、バンダも極めてバランスよく聴きとれたのも幸運でした。

まさに歴史に残る一夜。客席には熱心な方が多く、彼らの渾身の主張に対し最大限の賛辞を送っていたのも気持ちの良い風景でした。
これまでインバル/都響ほぼ一辺倒でしたが、カンブルランが発信する音楽のメッセージには全く違った説得力があります。このような芸術的主張の明確な音楽家が定期的に日本で活動してくれることに感謝しつつ、まずは3月のマーラー「悲劇的」を心待ちにすることとします。

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