たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

March 2015

2015/3/23
東京都交響楽団 第785回定期演奏会Bシリーズ

ベートーヴェン:荘厳ミサ曲

ソプラノ:吉原圭子
アルト:山下牧子
テノール:小原啓楼
バリトン:河野克典
合唱:栗友会合唱団、武蔵野音楽大学室内合唱団
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:小泉和裕

16型オケとP席を埋める大合唱は無事故とはいかずとも、雄渾な骨格は一切ブレない素晴らしさ。小泉さんは暗譜で歌詞を口ずさみながら真摯な音楽作り。栗友会は高音域や強音でも叫ばず風格ある歌唱、クレドのテナー系"et resurrexit"は輝かしく音楽が転換。
メッツ/NJPの荘厳も栗友会だったが、い ずれもアマチュア最高水準の風格で大満足。ソリストはNJPの海外勢に対してアンサンブルは互角。個人技を聴かせる曲でないのでこれで良い。メッツのドイツ的無骨さに対し小泉さんは優美でしなやかな都響の音をそのまま活かす。包容力の点で今日の方が好き。
年度末に傑作中の傑作であるミサソレを置いて泣かせる都響のニクさよ。今年度も音楽的なチャレンジの連続だった都響、全てを包み込む圧倒的充足感で来シーズンの大野さん体制へバトンが受け渡された。小泉さんの円熟も比類なく、改めて都響指揮者陣の充実に涙が出そう。このオケはどこまで行くのか。
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2015/3/22
神奈川県民ホール・びわ湖ホール・iichiko総合文化センター・東京二期会・神奈川フィルハーモニー管弦楽団・京都市交響楽団 共同制作公演
ヴェルディ 歌劇「オテロ」全4幕

ヴェルディ:歌劇「オテロ」(全4幕/イタリア語上演/字幕付)

オテロ:アントネッロ・パロンビ
デズデモナ:安藤赴美子
イアーゴ:堀内康雄
エミーリア:池田香織
カッシオ:大槻孝志
ロデリーゴ:与儀巧
ロドヴィーコ:デニス・ビシュニャ
モンターノ:青山貴
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
指揮:沼尻竜典

重めで貫禄満点、パロンビのタイトルロールが素晴らしい!合唱(冒頭から凄まじい音圧と統制!)、日本人キャストも相当に水準高いが、堀内さんのヤーゴは一つ頭抜けている感あり。粟國演出は作品に相応しい重厚さで色調暗め。冒頭の船は小さ過ぎてちゃちい。
第3幕まで進んでもパロンビのパワーが衰えないどころかモノローグでの烈火の如き最強音から殆ど囁きに近い超弱音まで全く痩せない。流石にポテンシャルの違いを感じてしまう。日本勢も幕ごとに良くなっているが、強弱の切り替えが急過ぎるし、弱音が話し声に近いように思える。
幕切れまで衰えぬことを知らぬパワー、本能的ながらも抜かりない演技、真に圧倒的なパロンビのオテロに震撼。カテコでは安藤さんお姫様抱っこ(笑) 堀内さん他日本人キャストもシリアスな歌唱で凸凹を感じない。エミーリアの池田さん、登場頻度は少ないけど存在感あった。
沼尻さんの指揮は懇切丁寧でパッション一辺倒にはならないけれど、弱音箇所で緊迫感をぐいと高めて全曲を弛緩させず立派な指揮。若干振りすぎな感もあるが・・・。神奈フィルはここ最近の充実を如実に反映した成果。どのセクションもがっちりと固めて出てくる音に不安さを感じない。ヴェルディのオケ。

2015/3/22
東京交響楽団  モーツァルト・マチネ 第20回
シュニトケ:モーツァルト・ア・ラ・ハイドン
ハイドン:交響曲第86番
モーツァルト:交響曲第31番「パリ」

ヴァイオリン:グレブ・ニキティン、水谷晃
管弦楽:東京交響楽団
指揮:ジョナサン・ノット

端正かつ表情豊かに仕上げられたハイドン・モーツァルトの高水準もさることながら、シュニトケが面白い!完全な暗闇で音楽が始まり、トゥッティの瞬間一気に照明が点く。モーツァルトの音楽の断片も聴かれ、やがて照明を落としながら低弦以外の楽員が去って曲を終える。ノットのセンスが光る好プログラミングのモーツァルト・マチネだった。

2015/3/20
日本フィルハーモニー交響楽団 第668回東京定期演奏会
@サントリーホール

ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番
~ソリスト・アンコール~
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番より 第3楽章
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」


ピアノ:イヴァン・ルーディン
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:木野雅之
指揮:アレクサンドル・ラザレフ

いきなり当日の感想から外れるが、昨年このコンビで聴いたショスタコーヴィチの「第4番」について軽く触れておきたい。

コンドラシン直伝のスコアを受け継いだラザレフの入魂の熱演で、音楽の友のランキングにも食い込む絶賛を博した演奏だったのだが、個人的には最後まで疑問符が取れなかった。何故か?恐らく原因は、この曲の初生がインバル/都響だったことだろう。膨大な要素がおかまいなしにに錯綜し、頻繁かつ唐突な楽想の変化が連続する難曲において、インバルはいつも通り何も気負わずにそれぞれの要素を緻密に仕上げた。その結果として曲の凸凹は容赦なく明らかにされ、第4番の先鋭性をひしひしと感じることとなった。あるブロガーの方が『エイゼンシュタインのモンタージュ技法のように』という優れた表現をなさっていたが、まさにその通りである。一見相反する要素を並列することで、それらの間に独自の意味が出現するのだ。その点ラザレフの演奏は、第4番を激烈で悲劇的な色調で覆っていた。1楽章の凄まじいフガートの後も音楽の火照りは冷めず、全体的に攻撃的な演奏だった。怒号の迫力には圧倒されたものの、第4番ならではの特徴が薄められてしまったように感じて納得がいかなかったのだ。

そしてやっと本題。今回聴いたのは第11番「1905年」である。会場でどなたかに教えていただいたのだが、なんと前半のピアノ協奏曲第2番と交響曲は作品番号が連続している。躁と鬱、と単純にカテゴライズしては身も蓋も無いが、ショスタコーヴィチという作曲家の多面性に改めて驚嘆した次第。ラザレフもこれを狙ったのだろうか?肝心の演奏はこのコンビの快心の一撃と言える素晴らしさで、第2楽章でどれだけ金管が咆哮し、打楽器が乱打されても負けない木管と弦の強靭さに打ちのめされた。特に弦は日フィルで聴いた事のない(これまでラザレフが振った時でさえ今回ほどではなかった!)厚みで、4楽章の刻みではぐいぐいとうねりながら邁進していた。そしてラザレフの解釈は、第11番では相性の良さを発揮した。第11番は第4番より曲の構成という点では遥かにシンプルで、ガボン率いるデモ隊の悲劇という歴史的事件の追憶としてのモニュメンタルな側面が大きい。ラザレフの紡ぐ音はそれに相応しい真摯さで、第2楽章の銃殺場面はテンポを落としてこれでもかと抉るような音を引き出していたし、第3楽章の有名な「ワルシャワ労働歌」の引用では殆ど聴こえない弱音で奏された。遅く決然と入った第4楽章では主部での急速なテンポ転換が効果的。なお、ラザレフは先述の第3楽章ではほぼ180°客席を向きながら指揮していた。咳のやまない聴衆に睨みを利かす以上の凄みがあったように思えた。

順番が前後するが、前半のピアノ協奏曲第2番では軽妙でユーモラスなショスタコーヴィチ像が楽しめた。ソロを弾いたルーディンは第2楽章のコケティッシュさ、両端楽章の痛快なリズムともに文句無く、ラザレフ指揮のオケも弾むように躍動感あるバックでルーディンに応える。素晴らしい演奏だったことには間違いないのだが、このイヴァン・ルーディンというピアニストにはどこか血も涙も無いピアノ・マシーンのような怖さを感じる。アンコールでまさかの「戦争ソナタ」を表情一つ変えず弾きこなし、終結音を叩き付けた瞬間体操選手の決めポーズのごとく椅子から彼が立ち上がった瞬間、その怖さは確信へと変わった(笑)

2015/3/18
東京都交響楽団 第784回定期演奏会Aシリーズ
@東京文化会館

ヴァーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」(ノヴァーク版)

管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:エリアフ・インバル

名古屋、福岡のツアーを経て、本拠地上野での都響定期。先日のシューマンに続きインバルの指揮で、ヴァーグナーとブルックナーの象徴的な作品が取り上げられた。(「象徴的」と書いたのは、作曲家の愛好家ならば絶対に外せない2作品だから)

インバルという人は昔から「作曲家に相応しいサウンドとスタイル」が大切だと言ってきており、都響の任に就いた際にも上記の目標を掲げたことが印象に残っている。事実インバルはマーラーでは細部の歪さを強調した分裂的演奏、ベートーヴェンやブラームスでは前世紀の巨匠もかくやという堂々たる演奏など、作曲家ごとにはっきりと描き分けを行ってきた。
ユダヤ人であるインバルとヴァーグナーはあまりイコールで結びつかないかもしれない。だが、90年代に都響の特別客演指揮者だった頃ヴァルキューレを演奏会形式で1幕ずつ上演したのは今でも語り草になっているし、同時期イタリアで「指環」全曲をやはり演奏会形式上演している。近年もベルギーで「パルジファル」、スペインで「トリスタン」を振ったように、熟練のオペラ指揮者でもあるインバルとしてはヴァーグナー音楽は当然のレパートリーなのだ。今回都響で聴かせた「トリスタン」の前奏曲と愛の死は、彼で全曲を是非聴きたいと思わせるに充分の水準だった。インバルのヴァーグナーは沈滞しながら蕩けるように歌い込むタイプではなく、ストレートに熱量を増して高揚していく愛の歌。音楽の頂点は愛の死のクライマックスに置かれ、膨張し崩れ落ちる寸前までインバルは激しく左手を震わせて更なる没入を求めていた。始まってすぐ木管の一部に楽器のトラブルが聴かれたものの、凛とした美しい演奏だった。早くも盛んなブラヴォーと喝采が舞う。
後半のブルックナーはフランクフルト時代に全曲を録音し、都響でも何曲も取り上げてきた自他ともに認めるインバルの得意レパートリー。その自信溢れる演奏に魅力を感じてはいたのだが、彼のブルックナーは相当に楽曲をいじるので他の所謂ブルックナー指揮者に比べると少々疑問符がつかないでもなかった。だが今回の4番を聴いてその意図がはっきり認識できたように思う。前半のヴァーグナーがロマン派の視点からの音楽なら、インバルのブルックナーは完全に古典派の視点による音楽なのだ。『ブルックナーは、宇宙の存在の意味を音楽で見いだそうとした作曲家の一人です。アインシュタインが相対性理論によって明らかにしようとしたこと、つまり万物の法則を、ブルックナーは音楽で試みたのです』これはインバル自身の言葉だが、言い換えれば楽曲中のあらゆる事象が何一つ曖昧であってはいけないということ。この突き詰めた厳格さは古典派のそれと共通する。宇宙的壮大さを雰囲気で表出しようと試みるのではなく、全ての要素を完璧に配置することで宇宙を音楽的に体現できる、こうインバルは信じているのではないだろうか。(今回コンマスを務められた矢部さんのTwitterによると、インバルは12歳の時に世の中を信仰を通してではなく科学を通して見るようになるという、心の大変革を経験したそうだ)
このことを念頭に置きながら今回の演奏を振り返ってみると、特異に思われた解釈や指示の数々の多くに納得がいく。低弦の刻みや金管のリズムへのアクセントによる縁取り、および次の主題への移行前のリタルダンドは音楽の骨格を聴き手にはっきり認識させるため。第1楽章コーダで主題を吹くホルンをまず抑え、付点リズムを繰り返す他の金管を強調し、一番最後にさあ出番だ!とばかり最強奏させるのはその例だ(スケルツォでは逆にホルンのリズムを強めに出しておき、徐々に弱めてトランペットにフォーカスしていた)。終楽章で"sehr ausdrucksvoll"(たいへん表情豊かに)と指示されたトランペット以外の金管によるコラールに続く弦のトゥッティの最後の6音が全ダウンになっていたのは?と思ったが、スコアを見るとなるほど全ての音符にアクセントの指示があるのでこれの強調だろう。また同じ旋律の反復では大抵2回目は音量を落として差をつけ、同じ音楽にしない。既にブログやTwitterで多くの方が触れている箇所だが、極めつけは終楽章コーダでヴァイオリン群になされた指示。1小節に6つある8分音符を完全なトレモロにせず、シベリウス5番終楽章の中間部のように分けて弾かせ、クレッシェンドしてffに至るとプルトの裏は全弓、表はトレモロというように分奏させていた。これによりトレモロの迫力を出しつつ旋律も浮かび上がらせるという離れ業が達成されており仰天したのだが、調べるとインバルの師チェリビダッケが全く同じ手法を取っている。(一番よく分かるのが楽友協会の長い残響に対応して弩級のスロー・テンポとなった89年ウィーン・ライヴ!(SONY))更にそもそも演奏以前の話だが、文化会館のみ倍に増やされた木管は恐らく残響の少ない上野で声部が埋もれないための対策だろう。
上記に記したのはまだまだインバルの指示の一部で、本番と練習を繰り返す過程でさしもの都響も悲鳴を上げるほどにディテールが徹底されたらしい。事実、無意識に雰囲気で流される箇所は皆無であり、出てくる全ての音・音量バランスが吟味され尽くしていた。異端的ともいえるインバルのブルックナー4番がほぼ理想的な形で達成されたのはひとえに当夜の都響の献身によるものだ。稀有なカリスマ指揮者によりリミッターが解除されたこの名人集団に、最早怖いものなどありはしない。圧倒的精度と厚みを見せたストリングスのうち、池松さん率いるコントラバスはヴァーグナーでドキリとするような渾身のピツィカートを聴かせ、ブルックナーではコンマ数秒早く出て重厚な音響形成に寄与した。また1楽章の金管との呼応をはじめ前傾姿勢でキレッキレの音楽を聴かせたヴィオラは名手・店村さんの存在が大きそう。管楽器はダブル首席が多い充実の布陣で、インバルのブルックナーに相応しい強靭なアンサンブルを聴かせたトロンボーンは筆頭に称えられるべき。細かいパッセージも含めて全くぶれずストレートなサウンドを聴かせたトランペットはいつもながら国内最高水準だ。ホルンはなんといっても有馬首席のソロが味わい深かったし、前半のヴァーグナーでソロをとった岸上さんもふくよかで素晴らしかった。木管セクションも見事。上野のみ参加の倍管組はさぞ大変だったと思う・・・。付け加えのようになってしまったが、今回は安藤さんのティンパニもよかった。
聴衆は熱に浮かされたように和音が消えた後もしばらく拍手が出来ず、しばらくの静寂の後嵐のような喝采が沸き起こった。何か生きるための糧をもらった、という歓喜に満ちた雄叫びのようにすら思われた。当然オケがはけたあとにインバルが一人呼び出され、スタンディングで拍手を送られる。会場を後にする聴衆の顔はみな紅潮し、凄いものを聴いたという興奮に周囲の温度が上がったような錯覚にさえとらわれた。人間としての根源的感覚を呼び起こさせるような演奏会だった。

2015/3/14
東京交響楽団 第628回定期演奏会
@サントリーホール

ベルク:抒情組曲より 3つの小品
ヴァーグナー:舞台神聖祝典劇「パルジファル」抜粋

クンドリ(ソプラノ):アレックス・ペンダ
パルジファル(テノール):クリスティアン・エルスナー
管弦楽:東京交響楽団
コンサートマスター:グレブ・ニキティン
指揮:ジョナサン・ノット

ノット/東響の1stシーズンを締め括る定期。なんとも渋い組み合わせだが、味わい深い年度末の演奏会となった。(まだ来週のモーツァルト・マチネはあるが)

ベルクは生では初めて聴いたが、CDで聴いた時よりもはるかに魅力的。やはり新ウィーン楽派など無調音楽こそライヴで接するべきだと再認識した。12型の弦楽のために編曲された作品で、ポルタメント、スル・ポンティチェロ、コル・レーニョとあらゆる標準的な特殊奏法が総動員される難曲だが、ノットの指揮はこれ以上求め難いほどに正確にして繊細。オーケストラをリードするというよりも、室内楽的な音の連関を個々の楽団員からしなやかに引き出すための棒だ。東響の弦は解像度はそれほどでもないがくぐもった中欧風の響きで、全編うっとりさせてくれた。終盤体調が悪くなったか何かだろうか、足音高く出て行った老人は腹立たしい。

後半は音楽史上の頂点の一つ、「パルジファル」より抜粋。昨年秋の新国立劇場公演以降、しばらく憑かれたように全曲を何度も聴いた身としては1時間の抜粋はあまりに物足りないのだが・・・それはないものねだりというもの。前奏曲~第2幕でクンドリがパルジファルの名を呼んで以降の掛け合い~聖金曜日の音楽という流れだった。全編の上演では前奏曲の後、再び冒頭の愛餐の動機が金管のバンダにより奏されてバス歌手によるグルネマンツが入り、ようやく音楽が動き出す。なので前奏曲の後すぐに2幕に移ってしまうのはやや強引なように思えた。聖金曜日の音楽もそれほど救済された感じを与えないので何とも歯痒い終結ではあったが、演奏会の枠に収めるためゆえ致し方ない。
ノット/東響はこの深遠な作品に相応しい落ち着いた語り口で、深い呼吸を体現した。ノットの「パルジファル」は、いわゆる伝統的でヒューマンなヴァーグナーというよりは、理知的に全曲を見通しながら抜かりなく構築していく現代的なスタイルに思えた。サウンドの重心が思ったより上方に置かれており、全体のバランスを崩してまで表現する場面がなかったのは「パルジファル」ゆえのノットの方針なのか、それともヴァーグナー作品全体に対するノットの姿勢なのかは今回だけでは分からない。もし後者だとすれば作曲家壮年期の作品では物足りなさそうだ。(『聖金曜日の音楽』途中でトリスタンそっくりの進行になる場面だけやや濃厚気味になったが)東響はタイトなスケジュールにも拘わらず堅実な演奏で、特に、完璧にブレンドされてアタックの引っかかりを殆ど感じさせない金管は特筆すべき水準だった。トロンボーンセクションの味わいの豊かさに起因するものが大きいように思える。その他、Obの荒さんら木管も良かったのだが、全体的にはやや流し気味で守りに入っているように思えたのは作品の難しさゆえか、それともこれもノットの解釈の影響か。
パルジファルを歌ったエルスナーはいまや当代きってのヴァーグナー歌いで、よくこんな人をこれだけのために呼んだものだと思う。堂々たる体躯から放たれる全方位的な美声は文句のつけようのない素晴らしさ。一方のクンドリはパルジファルにおける最重要人物―つまりヴァーグナー作品中で最も重要なキャラクターの一人だが―甚だ不満の残る歌唱だった。声は良いが、この重要な役柄を消化できておらず譜面に目を落としすぎで指揮者やエルスナーとのコンタクト不足。ノットはオペラ指揮者としての采配で彼女に配慮するが、その都度音楽が停滞してテンションが降下する。相手役が素晴らしかっただけに玉に瑕となってしまった。この点だけ今回は残念。

全体的には1stシーズンで随分と遠くに来たものだ、と思わせる充実ぶりだった。来シーズンはノットの指揮回数が増えるので更に期待。同時に空席も少なくなってほしいものだ・・・。

2015/3/12
慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ 第214回定期演奏会
@サントリーホール

ブラームス:悲劇的序曲
ドヴォルジャーク:交響詩「金の紡ぎ車」
R. シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

管弦楽:慶應義塾ワグネル・ソサィエティー・オーケストラ
コンサートマスター:川前有里
指揮:大河内雅彦

ワグネル・ファミリーの雄、ワグオケの定期演奏会を聴いた。

メインの英雄の生涯は、率直に言ってパーヴォ/N響より良かった。やはりこの曲はオーケストラの技量を全開にするだけでは物足りないのだ。「英雄の妻」でのVnとObの掛け合いからの恍惚とした陶酔をはじめ、弦の柔和な表情が終始魅力的。攻めのHr群など管楽器も尻上がりに調子を上げ、中庸のテンポでがっちり統率された「英雄の戦場」の高揚を経た終盤では温かな情感が込み上げた。素晴らしいパフォーマンス!大河内さんの指揮は全く奇を衒うことのない真摯なもの。
前半のブラームス、ドヴォルジャークという親交のあった2大作曲家の管弦楽曲も佳かった。「悲劇的序曲」では冒頭の2音から気合充分、哀歓交えながら雄弁に描かれた。続く「金の紡ぎ車」は曲そのものに首を傾げざるを得ないところだが、演奏はジグザグとした弦の交錯が心地良い。管はやや凹凸あれど水準は高かったように思う。

メイン曲で堂々のパフォーマンスを披露された上級生はもちろんのこと、前半に乗られた皆さんも素晴らしかったです。お疲れ様でした。また聴きに行きます。

2015/3/8
東京都交響楽団 「作曲家の肖像」シリーズ Vol.101 《シューマン》
@東京芸術劇場

シューマン:劇付随音楽「マンフレッド」序曲
シューマン:ピアノ協奏曲
~ソリスト・アンコール~
シューマン(リスト編曲):歌曲集「ミルテの花」より第1曲 献呈
シューマン:交響曲第4番(1851年改訂版)

ピアノ:河村尚子
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:四方恭子
指揮:エリアフ・インバル

インバルが都響に帰ってきた。

近年彼は極端に仕事の量を減らしている。ギュンター・ヴァントや師匠のチェリビダッケよろしく「練習時間がきっちり取れるオケと充実した仕事をやるのが性に合っている」と語る人なので、名門からオファーが来ても敢えて断っているのかもしれないが、今シーズンの彼の客演先を見るとルクセンブルク・フィル、タンペレ・フィル(この前都響ですばらしい演奏を聴かせたリントゥが2年前までシェフを務め、今は東響客演で有名になったロウヴァリ)といったお世辞にもメジャーとは言えないオケ、そして台北やシンガポール(初客演でマーラー9番!!)といったアジアのオケが目立つ。有名どころはケルン放送響、スイス・ロマンド管とワルシャワ・フィルくらいか。
そんな中にあって、今最もインバルと太いパイプを持っているのは間違いなく都響だろう。そのプログラムの攻め具合、演奏の充実度のどちらをとっても彼が最良の仕事を出来ているのはここ東京のオケなのである。昨年7月以来の登壇だったが、ゲネプロでは常任時代と変わらない―いや親密さを増したかもしれない―やり取りが繰り広げられた。先月で齢79歳を迎えたマエストロは見た目こそ貫禄ある好々爺で、ステージ上で団員に笑いが起きることすらあったが、その音楽の先鋭さは全く失われていなかった。どの曲でもアクセントと強弱をはっきり付け、音楽に縁取りを施していく。スビト!スビト!と口角泡を飛ばして次々と指示を与える姿はとても若々しい。椅子から腰を上げて歌いながら指揮したり、左手の人差し指と親指で丸を作る得意のサインを飛ばす場面も少なくなく、気合充分。ゲネプロにしてはトライ&エラーの連続で、リハーサルの延長という印象を受けた。
そんな充実のゲネプロを経ての本番では、まず冒頭の「マンフレッド」序曲から何の迷いもない、決然とした響きが頼もしい。14型でここまで分厚く芯の太いサウンドが出るのか、と驚く。それでいて響きは重すぎず軽すぎず、シューマンに適した機動性の高い音楽が紡がれてゆく。インバルはヴァイオリンのブリッジ音型の上行箇所を執拗に強調していた。
続くピアノ協奏曲は河村尚子さんの独奏。インバルが指揮する協奏曲ではいつものことなのだが、彼はソロパートの譜面もしっかり読み込んでいて、ソリストと対話するというよりは全体の一部にソロを組み込む形で音楽をがっしり組み上げていく。ゲネプロではソロの途中でもオーケストラに注文を付けたい箇所があると平気で演奏を止めてしまう。ドイツ語の堪能な河村さんは何度もインバルと話し合っていたが、彼女が譲歩した部分も少なからずあったのだろう。本番ではインバル主導のもとあたかも協奏交響曲のような一体感のある演奏が繰り広げられた。指揮者はピアノ・ソロの入りでご丁寧にキューを出す(笑)結果として伸びやかにソリストが羽ばたくような感興は殆ど感じられなかったが、これは好みの問題だろう。(自分は協奏曲ではもっと柔軟なスタイルが好きだ)演奏の完成度は申し分なく、河村さんの予想外に男勝りの力強いソロはもちろんのこと、冒頭すぐに現れる広田さんのオーボエはベルの角度を調整しながら比類ない美しさを聴かせたし、クラリネットのサトーさんも素晴らしかった。
休憩後の交響曲第4番はこの日の真骨頂といえる鮮烈な演奏だった。インバルはどうやら予告なしに(!)マーラー版のスコアを持参したらしく、1851年改訂版の一般的なスコアとマーラー版の折衷の形をとった。なるほど、金管やティンパニが若干派手になっている。第4楽章コーダではホルンが1オクターヴ上で吹く改変を採用しており、突然楽曲がひきつけを起こしたかのようなドキッとする効果を与える。(ゲネプロ後ホルン奏者がこの難所を繰り返し練習していたw)だが、物珍しいだけの演奏だったかというとそんなことは決してなく、序曲でも感じた好バランスのサウンドはそのままに流れの良い音楽の運びが展開した。巧みなテンポの揺さぶり、木管の効果的な強調はもちろんのこと、第4楽章提示部の反復でペザンテか!という位の大胆なアゴーギクが用いられていた。低弦に始まるコーダの速さは録音・実演ともに殆ど聴いたことがない部類のもので(ゲネプロより速かった)、先述したホルンの旋律が始まる箇所でスビト・メノモッソをかけて意表をつき、堂々たる終結を迎えた。
素朴なシューマンを愛する人からすればブーイングものの過激な演奏か?と思い、客席の反応を楽しみにしていたが、終演後は盛大な喝采に。やりたい放題を尽くしたインバルは真に満足そうな笑みを浮かべオーケストラをしきりに称えていた。それにしても、特に交響曲における今回の都響の充実振りは凄かった。あれだけテンポと音量に大胆な変化がありながら文字通り一糸乱れず、弦の刻みの一音ずつが聴き取れるような圧倒的合奏力。海外オケを聴いてから戻ってくると、その高精度ぶりに改めて瞠目する。そして、現在都響の美質を最大に引き出せる指揮者はインバルということも再確認した。4日後に迫ったヴァーグナー/ブルックナーのプログラムでは、美しい残響を持つ愛知県芸術劇場でどんな玲瓏な響きが広がるだろうか。楽しみでならない。

2015/3/7
Voces Veritas 第5回演奏会
@新宿文化センター

エベン:待降節と四旬節第三主日のミサ曲
ペルト:深淵より
ペンデレツキ:主をほめたたえよ
三善晃:男声合唱のための「王孫不帰」
信長貴富:新しい時代に
木下牧子:蝉
森山直太朗(田中達也編曲):夏の終わり(編曲委嘱初演)
松下耕:男声合唱とピアノのための組曲「罰と罪」(委嘱初演)
~アンコール~
松下耕:出発(男声版委嘱初演)

オルガン:新山恵理
ピアノ:前田勝則
合唱:Voces Veritas
指揮:松下耕、宮城太一

合唱をしている割にはあまり合唱の演奏会には行かないのだが、プログラムに惹かれたのと、尊敬する先輩が出演されるのでVoces Veritasの演奏会を聴いてきた。

1stステージはいわば宗教曲ステージ。聴衆は能動的に音楽に参加し、その意味するところを入念に汲み取る必要がある。ややハードルが高い曲選だと思った。エベンは現代作曲家に位置する人だが一声の作品で、多声音楽からグレゴリオ聖歌まで回帰したかの如く禁欲的。芸術的な味わいを楽しむ余裕を聴き手に与えず、信徒としての敬虔さを求めているという印象を受けた。戦争経験を持つ東欧の2大作曲家の作品は静謐で、ペルトはともかくペンデレツキにしてもかなり聴きやすい印象。
2ndステージは三善晃「王孫不帰」。地球誕生から現在までのあらゆる魂が言霊となって凝集し、強烈な磁場を形成し空間をねじ曲げるような凄まじさがホールを充たす。思わず顔を背けたくなる。男声合唱の最高峰とも言われる難曲を、なんとVVの皆さんは暗譜で歌っていた。両翼に雅楽を思わせる打楽器を配し、「はたり」「ちょう」と空間を切り裂くソリストと一体となって祭祀性のある空気を形成していく。
3rdステージは『新しい時代に』と題されたアンソロジー。王孫不帰の強烈すぎる余韻を包み込むような温かみあるステージだった。親しみやすいからといって芸術性が薄れることはなく、曲冒頭の透徹したハミングや中音部の響きが心地よい。特に「夏の終わり」は編曲の良さも含めて出色。
4thステージは音楽監督松下耕氏の「罰と罪」初演。宗左近の詩は極めて平明だが、それだけに二項対立構造がストレートに伝わってくる。無から有が生まれ、罪と罰が対比される中「愛」という新たな対立軸が初めて登場した瞬間の音色の変化にハッとさせられた。人間に生を授ける神にまで罪や罰の意識は遡り、やがて表裏一体である罪と罰を受け入れて生を「美しい花」とすることを高らかに歌う。これのほかにすがるものなどないのだ、と言わんばかりの切実さが痛いほどに伝わってきた。最後まで厚みのある合唱を聴かせてくれたVVの皆さんに心からの拍手を送った。アンコールも素敵だった。
プログラムを一貫するキーワードは「贖罪」だと思うが、それは神→戦争→社会→われわれ一人ひとり、と演奏会の進行につれフォーカスされていった。「罰と罪」でたびたび語られていたように、我々が生を営むこと自体が大きな罪であるのが避けられない事実ならば、せめてその生を「美しい花」とすることが自分に出来る贖罪なのだ。同世代の合唱団から受け取った渾身の回答は、そういうことなのではないかと思う。

2015/2/28
新日本フィルハーモニー交響楽団 第538回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール

ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲
ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容
ブラームス:交響曲第1番

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:西江辰郎
指揮:ラルフ・ワイケルト

1月は古典現代音楽プロで魅せた新日本フィルだが、今月の定期は反動が来たかのように保守的。神奈フィルでも聴いたヒンデミットが大好きなので、とりあえず向かう。

ワイケルトの棒はアマオケを振るかのように懇切丁寧で、大振りはせず両手で細かく拍をとるスタイル。フレーズの切れ目は器用にくるりと棒を回して次の楽器へリレーするのが個性といえば個性か。あの指揮では入り間違えようがない。ウェーバー、ヒンデミット、ブラームスのいずれもイメージした通りのテンポ感とフレージングで、ここまで予想通りだと逆に面食らってしまうが、重厚に仕立てられたヒンデミットも意外と悪くない。
新日本フィルはワイケルトの薫陶か、弦がいつもより厚くてドイツものっぽい音。ただ、白熱する場面でもアンサンブル重視の姿勢をとっており、小奇麗ではあるがどうもルーティン的でしらけている。管はややお粗末で、ホルンが重要な役割を担うウェーバーからセクションで統一されていない音が聴こえたし、ブラームスの終楽章でようやくまとまりだした感がある。オーボエとクラリネットのソリストは素晴らしかったが、ヴェテランのフルートは音を割り気味の吹奏で著しく感興を削ぐ。同じくブラームス終楽章のトロンボーン・コラールは薄っぺらく、ファゴットの方がよほどはっきりと聴こえるし深い音を出している。ティンパニは轟音でMVPだが、このティンパニが食われる位にオケの深みと音圧がほしいところ。

新日本フィルはやはり低調期を脱しきれないようだ。懐かしいブラームスを期待し、実際解釈はその通りだったが、オケがこの調子ではしょうがない。極論、家でカラヤン/ベルリン・フィルのCDを流していたほうがはるかに良い時間だったろう。上岡さんの音楽監督就任まではかなり時間がある。アンサンブルもそうだし、何しろ演奏にかける覇気という点で、他団との差をはっきりと感じる。非常に心配だ。

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