たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

March 2015

2015/3/23
東京都交響楽団 第785回定期演奏会Bシリーズ

ベートーヴェン:荘厳ミサ曲

ソプラノ:吉原圭子
アルト:山下牧子
テノール:小原啓楼
バリトン:河野克典
合唱:栗友会合唱団、武蔵野音楽大学室内合唱団
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:小泉和裕

16型オケとP席を埋める大合唱は無事故とはいかずとも、雄渾な骨格は一切ブレない素晴らしさ。小泉さんは暗譜で歌詞を口ずさみながら真摯な音楽作り。栗友会は高音域や強音でも叫ばず風格ある歌唱、クレドのテナー系"et resurrexit"は輝かしく音楽が転換。
メッツ/NJPの荘厳も栗友会だったが、い ずれもアマチュア最高水準の風格で大満足。ソリストはNJPの海外勢に対してアンサンブルは互角。個人技を聴かせる曲でないのでこれで良い。メッツのドイツ的無骨さに対し小泉さんは優美でしなやかな都響の音をそのまま活かす。包容力の点で今日の方が好き。
年度末に傑作中の傑作であるミサソレを置いて泣かせる都響のニクさよ。今年度も音楽的なチャレンジの連続だった都響、全てを包み込む圧倒的充足感で来シーズンの大野さん体制へバトンが受け渡された。小泉さんの円熟も比類なく、改めて都響指揮者陣の充実に涙が出そう。このオケはどこまで行くのか。
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2015/3/22
神奈川県民ホール・びわ湖ホール・iichiko総合文化センター・東京二期会・神奈川フィルハーモニー管弦楽団・京都市交響楽団 共同制作公演
ヴェルディ 歌劇「オテロ」全4幕

ヴェルディ:歌劇「オテロ」(全4幕/イタリア語上演/字幕付)

オテロ:アントネッロ・パロンビ
デズデモナ:安藤赴美子
イアーゴ:堀内康雄
エミーリア:池田香織
カッシオ:大槻孝志
ロデリーゴ:与儀巧
ロドヴィーコ:デニス・ビシュニャ
モンターノ:青山貴
合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
指揮:沼尻竜典

重めで貫禄満点、パロンビのタイトルロールが素晴らしい!合唱(冒頭から凄まじい音圧と統制!)、日本人キャストも相当に水準高いが、堀内さんのヤーゴは一つ頭抜けている感あり。粟國演出は作品に相応しい重厚さで色調暗め。冒頭の船は小さ過ぎてちゃちい。
第3幕まで進んでもパロンビのパワーが衰えないどころかモノローグでの烈火の如き最強音から殆ど囁きに近い超弱音まで全く痩せない。流石にポテンシャルの違いを感じてしまう。日本勢も幕ごとに良くなっているが、強弱の切り替えが急過ぎるし、弱音が話し声に近いように思える。
幕切れまで衰えぬことを知らぬパワー、本能的ながらも抜かりない演技、真に圧倒的なパロンビのオテロに震撼。カテコでは安藤さんお姫様抱っこ(笑) 堀内さん他日本人キャストもシリアスな歌唱で凸凹を感じない。エミーリアの池田さん、登場頻度は少ないけど存在感あった。
沼尻さんの指揮は懇切丁寧でパッション一辺倒にはならないけれど、弱音箇所で緊迫感をぐいと高めて全曲を弛緩させず立派な指揮。若干振りすぎな感もあるが・・・。神奈フィルはここ最近の充実を如実に反映した成果。どのセクションもがっちりと固めて出てくる音に不安さを感じない。ヴェルディのオケ。

2015/3/22
東京交響楽団  モーツァルト・マチネ 第20回
シュニトケ:モーツァルト・ア・ラ・ハイドン
ハイドン:交響曲第86番
モーツァルト:交響曲第31番「パリ」

ヴァイオリン:グレブ・ニキティン、水谷晃
管弦楽:東京交響楽団
指揮:ジョナサン・ノット

端正かつ表情豊かに仕上げられたハイドン・モーツァルトの高水準もさることながら、シュニトケが面白い!完全な暗闇で音楽が始まり、トゥッティの瞬間一気に照明が点く。モーツァルトの音楽の断片も聴かれ、やがて照明を落としながら低弦以外の楽員が去って曲を終える。ノットのセンスが光る好プログラミングのモーツァルト・マチネだった。

2015/3/20
日本フィルハーモニー交響楽団 第668回東京定期演奏会
@サントリーホール

ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第2番
~ソリスト・アンコール~
プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番より 第3楽章
ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」


ピアノ:イヴァン・ルーディン
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:木野雅之
指揮:アレクサンドル・ラザレフ

いきなり当日の感想から外れるが、昨年このコンビで聴いたショスタコーヴィチの「第4番」について軽く触れておきたい。

コンドラシン直伝のスコアを受け継いだラザレフの入魂の熱演で、音楽の友のランキングにも食い込む絶賛を博した演奏だったのだが、個人的には最後まで疑問符が取れなかった。何故か?恐らく原因は、この曲の初生がインバル/都響だったことだろう。膨大な要素がおかまいなしにに錯綜し、頻繁かつ唐突な楽想の変化が連続する難曲において、インバルはいつも通り何も気負わずにそれぞれの要素を緻密に仕上げた。その結果として曲の凸凹は容赦なく明らかにされ、第4番の先鋭性をひしひしと感じることとなった。あるブロガーの方が『エイゼンシュタインのモンタージュ技法のように』という優れた表現をなさっていたが、まさにその通りである。一見相反する要素を並列することで、それらの間に独自の意味が出現するのだ。その点ラザレフの演奏は、第4番を激烈で悲劇的な色調で覆っていた。1楽章の凄まじいフガートの後も音楽の火照りは冷めず、全体的に攻撃的な演奏だった。怒号の迫力には圧倒されたものの、第4番ならではの特徴が薄められてしまったように感じて納得がいかなかったのだ。

そしてやっと本題。今回聴いたのは第11番「1905年」である。会場でどなたかに教えていただいたのだが、なんと前半のピアノ協奏曲第2番と交響曲は作品番号が連続している。躁と鬱、と単純にカテゴライズしては身も蓋も無いが、ショスタコーヴィチという作曲家の多面性に改めて驚嘆した次第。ラザレフもこれを狙ったのだろうか?肝心の演奏はこのコンビの快心の一撃と言える素晴らしさで、第2楽章でどれだけ金管が咆哮し、打楽器が乱打されても負けない木管と弦の強靭さに打ちのめされた。特に弦は日フィルで聴いた事のない(これまでラザレフが振った時でさえ今回ほどではなかった!)厚みで、4楽章の刻みではぐいぐいとうねりながら邁進していた。そしてラザレフの解釈は、第11番では相性の良さを発揮した。第11番は第4番より曲の構成という点では遥かにシンプルで、ガボン率いるデモ隊の悲劇という歴史的事件の追憶としてのモニュメンタルな側面が大きい。ラザレフの紡ぐ音はそれに相応しい真摯さで、第2楽章の銃殺場面はテンポを落としてこれでもかと抉るような音を引き出していたし、第3楽章の有名な「ワルシャワ労働歌」の引用では殆ど聴こえない弱音で奏された。遅く決然と入った第4楽章では主部での急速なテンポ転換が効果的。なお、ラザレフは先述の第3楽章ではほぼ180°客席を向きながら指揮していた。咳のやまない聴衆に睨みを利かす以上の凄みがあったように思えた。

順番が前後するが、前半のピアノ協奏曲第2番では軽妙でユーモラスなショスタコーヴィチ像が楽しめた。ソロを弾いたルーディンは第2楽章のコケティッシュさ、両端楽章の痛快なリズムともに文句無く、ラザレフ指揮のオケも弾むように躍動感あるバックでルーディンに応える。素晴らしい演奏だったことには間違いないのだが、このイヴァン・ルーディンというピアニストにはどこか血も涙も無いピアノ・マシーンのような怖さを感じる。アンコールでまさかの「戦争ソナタ」を表情一つ変えず弾きこなし、終結音を叩き付けた瞬間体操選手の決めポーズのごとく椅子から彼が立ち上がった瞬間、その怖さは確信へと変わった(笑)

2015/3/18
東京都交響楽団 第784回定期演奏会Aシリーズ
@東京文化会館

ヴァーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」より前奏曲と愛の死
ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」(ノヴァーク版)

管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:エリアフ・インバル

名古屋、福岡のツアーを経て、本拠地上野での都響定期。先日のシューマンに続きインバルの指揮で、ヴァーグナーとブルックナーの象徴的な作品が取り上げられた。(「象徴的」と書いたのは、作曲家の愛好家ならば絶対に外せない2作品だから)

インバルという人は昔から「作曲家に相応しいサウンドとスタイル」が大切だと言ってきており、都響の任に就いた際にも上記の目標を掲げたことが印象に残っている。事実インバルはマーラーでは細部の歪さを強調した分裂的演奏、ベートーヴェンやブラームスでは前世紀の巨匠もかくやという堂々たる演奏など、作曲家ごとにはっきりと描き分けを行ってきた。
ユダヤ人であるインバルとヴァーグナーはあまりイコールで結びつかないかもしれない。だが、90年代に都響の特別客演指揮者だった頃ヴァルキューレを演奏会形式で1幕ずつ上演したのは今でも語り草になっているし、同時期イタリアで「指環」全曲をやはり演奏会形式上演している。近年もベルギーで「パルジファル」、スペインで「トリスタン」を振ったように、熟練のオペラ指揮者でもあるインバルとしてはヴァーグナー音楽は当然のレパートリーなのだ。今回都響で聴かせた「トリスタン」の前奏曲と愛の死は、彼で全曲を是非聴きたいと思わせるに充分の水準だった。インバルのヴァーグナーは沈滞しながら蕩けるように歌い込むタイプではなく、ストレートに熱量を増して高揚していく愛の歌。音楽の頂点は愛の死のクライマックスに置かれ、膨張し崩れ落ちる寸前までインバルは激しく左手を震わせて更なる没入を求めていた。始まってすぐ木管の一部に楽器のトラブルが聴かれたものの、凛とした美しい演奏だった。早くも盛んなブラヴォーと喝采が舞う。
後半のブルックナーはフランクフルト時代に全曲を録音し、都響でも何曲も取り上げてきた自他ともに認めるインバルの得意レパートリー。その自信溢れる演奏に魅力を感じてはいたのだが、彼のブルックナーは相当に楽曲をいじるので他の所謂ブルックナー指揮者に比べると少々疑問符がつかないでもなかった。だが今回の4番を聴いてその意図がはっきり認識できたように思う。前半のヴァーグナーがロマン派の視点からの音楽なら、インバルのブルックナーは完全に古典派の視点による音楽なのだ。『ブルックナーは、宇宙の存在の意味を音楽で見いだそうとした作曲家の一人です。アインシュタインが相対性理論によって明らかにしようとしたこと、つまり万物の法則を、ブルックナーは音楽で試みたのです』これはインバル自身の言葉だが、言い換えれば楽曲中のあらゆる事象が何一つ曖昧であってはいけないということ。この突き詰めた厳格さは古典派のそれと共通する。宇宙的壮大さを雰囲気で表出しようと試みるのではなく、全ての要素を完璧に配置することで宇宙を音楽的に体現できる、こうインバルは信じているのではないだろうか。(今回コンマスを務められた矢部さんのTwitterによると、インバルは12歳の時に世の中を信仰を通してではなく科学を通して見るようになるという、心の大変革を経験したそうだ)
このことを念頭に置きながら今回の演奏を振り返ってみると、特異に思われた解釈や指示の数々の多くに納得がいく。低弦の刻みや金管のリズムへのアクセントによる縁取り、および次の主題への移行前のリタルダンドは音楽の骨格を聴き手にはっきり認識させるため。第1楽章コーダで主題を吹くホルンをまず抑え、付点リズムを繰り返す他の金管を強調し、一番最後にさあ出番だ!とばかり最強奏させるのはその例だ(スケルツォでは逆にホルンのリズムを強めに出しておき、徐々に弱めてトランペットにフォーカスしていた)。終楽章で"sehr ausdrucksvoll"(たいへん表情豊かに)と指示されたトランペット以外の金管によるコラールに続く弦のトゥッティの最後の6音が全ダウンになっていたのは?と思ったが、スコアを見るとなるほど全ての音符にアクセントの指示があるのでこれの強調だろう。また同じ旋律の反復では大抵2回目は音量を落として差をつけ、同じ音楽にしない。既にブログやTwitterで多くの方が触れている箇所だが、極めつけは終楽章コーダでヴァイオリン群になされた指示。1小節に6つある8分音符を完全なトレモロにせず、シベリウス5番終楽章の中間部のように分けて弾かせ、クレッシェンドしてffに至るとプルトの裏は全弓、表はトレモロというように分奏させていた。これによりトレモロの迫力を出しつつ旋律も浮かび上がらせるという離れ業が達成されており仰天したのだが、調べるとインバルの師チェリビダッケが全く同じ手法を取っている。(一番よく分かるのが楽友協会の長い残響に対応して弩級のスロー・テンポとなった89年ウィーン・ライヴ!(SONY))更にそもそも演奏以前の話だが、文化会館のみ倍に増やされた木管は恐らく残響の少ない上野で声部が埋もれないための対策だろう。
上記に記したのはまだまだインバルの指示の一部で、本番と練習を繰り返す過程でさしもの都響も悲鳴を上げるほどにディテールが徹底されたらしい。事実、無意識に雰囲気で流される箇所は皆無であり、出てくる全ての音・音量バランスが吟味され尽くしていた。異端的ともいえるインバルのブルックナー4番がほぼ理想的な形で達成されたのはひとえに当夜の都響の献身によるものだ。稀有なカリスマ指揮者によりリミッターが解除されたこの名人集団に、最早怖いものなどありはしない。圧倒的精度と厚みを見せたストリングスのうち、池松さん率いるコントラバスはヴァーグナーでドキリとするような渾身のピツィカートを聴かせ、ブルックナーではコンマ数秒早く出て重厚な音響形成に寄与した。また1楽章の金管との呼応をはじめ前傾姿勢でキレッキレの音楽を聴かせたヴィオラは名手・店村さんの存在が大きそう。管楽器はダブル首席が多い充実の布陣で、インバルのブルックナーに相応しい強靭なアンサンブルを聴かせたトロンボーンは筆頭に称えられるべき。細かいパッセージも含めて全くぶれずストレートなサウンドを聴かせたトランペットはいつもながら国内最高水準だ。ホルンはなんといっても有馬首席のソロが味わい深かったし、前半のヴァーグナーでソロをとった岸上さんもふくよかで素晴らしかった。木管セクションも見事。上野のみ参加の倍管組はさぞ大変だったと思う・・・。付け加えのようになってしまったが、今回は安藤さんのティンパニもよかった。
聴衆は熱に浮かされたように和音が消えた後もしばらく拍手が出来ず、しばらくの静寂の後嵐のような喝采が沸き起こった。何か生きるための糧をもらった、という歓喜に満ちた雄叫びのようにすら思われた。当然オケがはけたあとにインバルが一人呼び出され、スタンディングで拍手を送られる。会場を後にする聴衆の顔はみな紅潮し、凄いものを聴いたという興奮に周囲の温度が上がったような錯覚にさえとらわれた。人間としての根源的感覚を呼び起こさせるような演奏会だった。

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