たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

August 2015

2015/8/27
サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015
サントリーホール国際作曲委嘱シリーズNo.38(監修:細川俊夫)
テーマ作曲家<ハインツ・ホリガー> 管弦楽
@サントリーホール

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
ダイエ:2つの真夜中のあいだの時間~管弦楽のための(日本初演)
ホリガー:レチカント~ヴィオラと小オーケストラのための(日本初演)

ホリガー:デンマーリヒト-薄明-ソプラノと大管弦楽のための5つの俳句
(世界初演、サントリーホール委嘱作品)
ヴェレシュ:ベーラ・バルトークの思い出に捧げる哀歌

ソプラノ:サラ・マリア・サン
ヴィオラ:ジュヌヴィエーヴ・シュトロッセ
管弦楽:東京交響楽団
コンサートマスター:グレブ・ニキティン
指揮:ハインツ・ホリガー

自作を含む現音プロ、冒頭の「牧神」のみクラシカルな選曲。ホリガーは細かなテンポ変化や野趣ある管楽器の強調を見事に振り抜き、作曲家ならではの鋭角的な音像を描く。造形はソリッドだがオケの響は豊満で、相反する二要素が同居した珍しい演奏。これは自作の様式とも共通する。
「牧神」の後は若手作曲家ダイエ作品、師ヴェレシュ作品で自作2つを挟む構成だった。自作のうち、歌と語りを併せたヴィオラ協奏曲的な作品・「レチカント」は個人的にさっぱりだったが、委嘱初演の「デンマーリヒト—薄明」には感銘を受けた。自作の俳句を題材としているが、それ以上に日本的な静を感じる管弦楽法。ホリガー自身により5つの俳句が朗読され(この深々とした語りがまたいい!)、続いて連作歌曲をソプラノが歌っていく。5つの俳句は切れ目なく歌われるので、曲想の変化を対訳に沿って追っていった。マーラーの「大地の歌」のような東洋的ペシミズムは遠い影響として聴かれるが、それらを十分に消化した筆のなせる技だと思う。異文化をモティーフにするのではなく、同化して自らその内側で表現する。その意志がはっきりと感じ取れた。
順番が前後するが、若手のダイエ作品はまあ、正直に言えばとりとめもない感じ。ただ響きの随所にフランス的な薫りが感じ取れたのは嬉しかった。トリを飾ったヴェレシュ「バルトークの思い出に捧げる哀歌」は今回の中では一番オーセンティックな楽曲、1945年のバルトークの死に寄せて書かれた作品だが、バルトーク以上に聴きやすかった。ヴェレシュはホリガーの師匠でもあり、バルトークとヴェレシュ、ヴェレシュからホリガーというヨーロッパ音楽界における一つの道筋を発見できたことは今回最大の収穫だったかもしれない。

2015/8/23
サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015
ザ・プロデューサー・シリーズ 長木誠司がひらく
レクイエム~詩と声と命の果つるところ
@サントリーホール

ツィンマーマン: ある若き詩人のためのレクイエム(日本初演)

ナレーター:長谷川初範、塩田泰久
ソプラノ:森川栄子
バリトン:大沼徹
ジャズコンボ:スガダイロー・クインテット
ピアノ:スガダイロー
サクソフォン:吉田隆一
トランペット:類家心平
ベース:東保光
ドラムス:服部マサツグ
新国立劇場合唱団(合唱指揮:冨岡恭平)
エレクトロニクス:有馬純寿
管弦楽:東京都交響楽団
指揮:大野和士

サントリー芸術財団が真夏におくる現代音楽の祭典・サントリーサマーフェスティバル。毎年意欲的な試みが続いているが、今年はベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」の日本初演が大きな目玉企画となった。4月に都響音楽監督に就任した大野和士を筆頭に、オール日本人キャストによる初演というのも快挙だ。

近年メッツマッハー/新日フィルの優れた演奏により、彼の作品の生演奏を継続的に聴くことができたが、その異様かつ厳格な作品世界は聴く者に強烈な印象を与える。だが、この「ある若き詩人のためのレクイエム」は彼の作品の中でも最大規模に拡大された超大作と言っていい。死の年に作曲された「フォトプトシス」もあるが、最晩年のツィンマーマンが渾身の力で打ち上げた巨砲がこの「レクイエム」なのだ。
全体の構成・編成がまず凄い。アイスキュロスに始まりコンラート・バイヤーまで、 古今東西の詩人・政治家・音楽家・文学者・哲学者の言葉が次々にコラージュされる。ステージ上の語り手はドイツ基本法と毛沢東語録を担当し、ホールを取り囲むように設置された数十のスピーカー群、合唱により他の言葉が語られる。ある物は朗読され、またある物はテープ録音が流される。ゲッベルス、ヒトラー、ドゥプチェクなど、歴史的演説は実際の音源が生々しく使用される。音楽の引用では、ミヨーのバレエ音楽「世界の創造」、ベートーヴェン「第9」終楽章、ヴァーグナー「トリスタンとイゾルデ」より愛の死、ビートルズ「ヘイ・ジュード」がスピーカーから聴こえて来る。
ヴァイオリン、ヴィオラといった高弦部を排した大オーケストラは約65分の演奏時間のうち、最初の40分ほどはトゥッティで登場することはない。突如轟然と「レクイエム・エテルナム」を叫ぶ合唱をホルンがリードしたり、通奏低音的に低弦が下支えしたりといった使われ方である。オーケストラの不在を音響的に代行するのは、有馬純寿さん率いるチームが操作するエレクトロニクス。一階中央客席の大部分を潰し、ツィンマーマンの作成した電子音響のテープをホールに無理なく響かせていた。よって指揮者・大野さんの仕事は普段のオーケストラ指揮とは幾分異なる形になる。指揮台の隣にはMacBookが置かれており、その画面に表示される時間経過が作品の進行を示している(この時計はある箇所で表示が止まったり、また再開したりする)。大野さんはそれに従い、RB・LB・センターブロック後方に位置する合唱団に指示を出していった。合唱団の各分隊にはそれぞれ副指揮者がおり、彼らが大野さんの指揮をモニターでコピーしながら音楽が進行する形であった。

構成・編成について少し書いただけでかなりの字数を使ってしまった。ここから演奏について触れていきたい。
ヨーロッパ以外ではニューヨークのカーネギーホールに続き二箇所目という稀少な大作の初演にあたり、聴衆には十全な啓蒙が行われていたように思う。プレ企画として出演者による講演会が東大駒場キャンパスで行われたほか、公式ウェブサイト、SNSでの特集にも力が入れられていた。更には公演当日、正味65分の演奏の前に大野さん×長木さんによるプレトークも開催。プロデュース企画として、万全な準備を以って上演したいという長木さんの熱意が伝わった。
そうして繰り広げられた演奏は、予想を上回る情報量と深く重いメッセージを我々に提起するものだった。あまりの重さに、公演から数日は頭がずっと熱を帯びて明らかに体調が悪かったほどだ。 
一つの作品が持つスケールとしてはあまりに破天荒な作品であると同時に、緻密な設計を以って構築されており、各要素に確かな説得力を感じた。これは新鮮な驚きであった。異端として語られがちなツィンマーマンであるが、彼もまたドイツ・オーストリア音楽の流れを引く作曲家であるということだ。数々の引用ではドイツの大作曲家が登場するし、オーケストラパートでもそれを思わせる箇所がある。例えば終盤2回グロテスクに現れる「愛の救済の動機」(ヴァーグナー『神々の黄昏』)は、レクイエムの救済を嘲笑うかのようだし、ハンマー3連打は明らかにベルク「3つの管弦楽曲」の影を感じさせ、更にはベルクが着想を得たと思われるマーラー「悲劇的」に辿り着く。ツィンマーマンはベルクを尊敬していたようで、彼の絶筆となった「 わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た」という作品においても、ベルクがやはり絶筆の「ヴァイオリン協奏曲」で引用したのと同じJ. S. バッハのコラールを引用している。(それも金管楽器による最強奏で!)
テープから流れる異なる言葉のコラージュにおいても、意図的な関連性を試みている箇所がいくつもある。これについては公式プログラムの曲目解説に掲載されているので、割愛したい。
このレクイエムでは、凄まじい情報量の言葉の波に呑まれるという「言語体験」こそが重要なのではないか。登場する言葉全てが意味を持っていながら、聴き手はそのどれも正確に追うことができない。全てが聞かれるべきだが、どれも聞かれる事はない—この相反性こそツィンマーマンの狙いであり、現代の情報過多な社会をも暗示しているのではないか。これは膨大な言葉が瞬時に流れ消えていくSNSそのものである。そのツィンマーマンの意図を可視化するようなスクリーン上の字幕は実に素晴らしい出来であった。殆ど読むことができない箇所も多数。
 
その他の音楽的な要素で言えば、スガダイロー・クインテットによる即興ジャズ・コンボも痛快だった。しかし何より体が凍りついた箇所は、オルガンを含むオーケストラの大音響が民衆デモのコラージュに推移して行き、一瞬静寂が訪れた後に全合唱が「ドナ・ノービス・パーチェム(我を救い給え)」という、レクイエムの典礼文には本来ない一節を絶叫する大詰めの場面だ。この絶叫の阿鼻叫喚ぶりもさることながら、楽曲最後の「パーチェム」の"m"の余韻を大野さんがハミングで残したことに鳥肌が立った。ギーレン、ベルティーニらの音源で確認した限りでは、これは大野さん独自のアイディアのようだ。曲の唐突な幕切れにクッションを与える意図かもしれないが、自分には真逆に感じられた。あらゆる分野の知見を総動員してメッセージを発しても、なお語り切れない作曲家の思いがこのハミングに込められているように聴こえたのだ。原始以来のあらゆる怨憎が地獄の入り口でおいでおいでをしているような—そんな光景がチラリと見えてしまったのは、自分だけだろうか。

とにかく凄いものを聴いた。これだけの作品の日本初演が成されたということ事体が一つの「事件」である。演奏終了後のステージは緊張感から解放されたようなホッとした雰囲気もあったが、(大野さんの指示があったとはいえ)自然発生的に起こったジャズ・コンボの即興演奏も含め、全てをツィンマーマンがサントリーホールの上方からじっと見ているかのような、ジワリと冷たい余韻をも残す演奏会だった。

2015/8/23
読売日本交響楽団 第179回東京芸術劇場マチネーシリーズ
@東京芸術劇場 コンサートホール

ドヴォルジャーク:チェロ協奏曲
〜ソリスト・アンコール〜
J. S. バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番より サラバンド

ドヴォルジャーク:交響曲第8番

チェロ:アンドレアス・ブランテリド
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:ダニエル・ゲーデ
指揮:下野竜也

夏はオーケストラの自主公演が減る。オーケストラも夏休みを取るわけだが、そんな中で読響は毎年比較的忙しく演奏会を行っている。スペシャル公演が追加されたりもするが、基本的には三大交響曲&協奏曲公演が恒例だ。
今年の「三大協奏曲」 はオケとの信頼厚い下野竜也が指揮。メンデルスゾーン・ドヴォルジャーク・チャイコフスキーの名曲で手堅い伴奏を務めたのだろうが、今年の夏はプラスアルファのマチネーが組まれた。それが今回の演奏会だ。

前置きがくどくなった。「三大協奏曲」で登場した三人のソリストの中でもとりわけ好評だったのがドヴォルジャークを弾いたブランテリド、さてどんな演奏を聴かせてくれるのかと興味が沸くところ。
冒頭のほの暗いクラリネットに始まりオーケストラは骨太な響きで盛り立てる。若いブランテリドがこの強面なバックにどう対抗するかと見守っていると、思いのほか気負いなくストレートな出だし。威風堂々とオケに向かうのではなく、爽やかで力みのない響き。ドヴォコンといえば民俗色プンプンの濃厚な歌い口が定番(?)だが、今風の若者はこういう風に弾くのかと新鮮に受け止めた。かと言って若い魅力だけということはなく、寧ろ年齢を感じさせない落ち着いた風格をも漂わせる。弱音でも音の芯が確かで、歌が痩せず滑らかに移行していくのがまことに好ましい。白熱度合いを増すバックのオケに接近する形で、楽章を追うにつれソロの雄弁さも増していった。
個人的に、かなり好みのチェリストかもしれない。肉声の如き切迫性を持つチェロの響きも嫌いではない(最近でいうとワイラースタイン)のだが、スマートさを以って楽曲の魅力を教えてくれるような彼の個性は貴重だ。

後半のシンフォニー、これは流石に下野さんの十八番と言うべき作品だろう。何せこのコンビはドヴォルジャークの交響曲全曲演奏を達成、レクイエムの名演も含めこの作曲家に関しては一家言を持っている。改めて第8番を聴くとあれば期待も高まるというものだ。
下野さんは前半にも増して緻密でがっしりとした構築を披露。作品が持つ芳醇な歌を適度に引き出しつつ、それに溺れることはせず全体のバランスを見事に統御した指揮だった。こういうバランス感覚においては、下野さんは国内において抜群のセンスを持っている。読響はストリングスの強靭さがいつになく見事、ほんの少しだけ指揮より前に出ようとするゲーデコンマスのリードは特徴的に思われた。彼がかつてコンマスを務めていたウィーン・フィルのキュッヒルを髣髴とさせるものがあるが、何か共通するメソッドがあるのかもしれない。弦楽5部に比べると木管の弾(はじ)け具合はやや控えめで、結果としてストリングスの交錯がいつになく鮮明に印象付けられることになった。金管、ティンパニもよく鳴る。
終楽章のコーダなどただでさえ痛快な音楽だが、ここにきて下野さんがオケを一気に開放するものだから盛り上がることこの上ない。下世話な話だが、三大協奏曲を終えてから1日のリハーサルでここまで仕上げられるものだ。

三大協奏曲のオマケかな、と斜に構えていたらとんでもない。素晴らしいドヴォルジャーク・マチネだった。流石は下野さんである。

2015/8/19
ラインガウ音楽祭 フランクフルト放送交響楽団
@クアハウス、フリードリッヒ・フォン・ティーアシュ・ザール(ドイツ、ヴィースバーデン)

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
〜ソリスト・アンコール〜
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番より 第1曲

ラフマニノフ:交響曲第2番

ヴァイオリン:五嶋龍
管弦楽:フランクフルト放送交響楽団
コンサートマスター:Alejandro Rutkauskas
指揮:アンドレス・オロスコ=エストラーダ


所属する大学合唱団のドイツ・イタリア遠征と組み合わせて、フランクフルト郊外のヴィースバーデンにて行われているラインガウ音楽祭の一公演を聴いた。
高級な温泉観光地として知られるヴィースバーデンのシンボルともいうべきクアハウスの中にあるホールは、添付写真の通り重厚な佇まい。いわゆる近代的な高分解能を誇るホールではないが、林立する石柱にサウンドが乱反射して豊かな音響を味わうことができる。今回、日本でも好んで選ぶ上手ステージ横(サントリーでいうRAブロック)に座したが、直接音多めで迫力ある音響を楽しめた。ティンパニのE音のみ異様にマスクされるのは不思議だったが、ご愛嬌といったところか。

演奏は地元ヘッセン州の雄・フランクフルト放送響(現在の正式名称はhr響)で、シェフを務めるオロスコ=エストラーダとの登場でロシアン・プログラムを披露した。この組み合わせは11月に来日公演を行うが、後半以外の演目と出演者は共通しているので先取りした形になる。

前半のチャイコフスキーの協奏曲はストレートとはかけ離れた、知性により細部まで彫琢された個性的な演奏で少々意外だった。五嶋龍はソロの録音を少々聴いてきた位の認知度だが、こういう凝ったアプローチを採る人だったか?
全曲の中でも1楽章の作り込みは相当に細かい。ルバートやポルタメント、パウゼや音価の長短まで五嶋節(?)が決まる。第3楽章は急速なテンポの中で比較的ストレートに展開されたが、強拍の位置に聴き慣れない箇所がちらほら。第1楽章始まってすぐの弾き損じや、ピッチのブレなどを含め、解釈の練り上げはこれからといった感も否めなかったが、これだけ能動的なチャイコンも珍しい。指揮者とオケは徹頭徹尾ソリストに追従、よくあれだけ自在なテンポ変化に対応したものだ。それでいて木管やティンパニをここぞという場面では華やかに開放するのがニクい。見事な仕事だった。
アンコールはイザイの無伴奏ソナタより一曲。怒りの日の旋律が二重に展開される名曲を気迫あふれる(足で床を何度も打ち鳴らす!)演奏で楽しんだ。個人的にはアンコールの方に好印象を持った。

後半はラフマニノフの名曲・交響曲第2番。このコンビの「交響的舞曲」は楽団の公式YouTubeで観ることができ、それは覇気ある見事な演奏だった。フランクフルト放送響は技術的には中の上だと思うが、指揮者・曲との相性で今回の交響曲第2番も素晴らしい演奏となった。このオケ特有の木管群の積極性、硬質なティンパニもプラスに働いた。
オロスコ=エストラーダの指揮は南米出身らしい尽きせぬエネルギーと強靭なリズム感・身体能力に裏打ちされた圧巻のものだが、同じ南米出身でもドゥダメルとは趣が異なる。ドゥダメルは拍節感はしっかりと打ち出すものの、曲全体の構築や雰囲気はオケ任せにしてしまう(近年のベルリン・フィルとのマーラー3番はその典型だ)。それに比してオロスコ=エストラーダは、独自の表現意欲をオーケストラに提案する。表現の押し付けではなく、楽団から沸き上がる自然な歌を自らの音楽へと引き込んでいるとでも言おうか。彼のセクション全体を抱え込むような指揮は止まることがなく、運動量は大変多いのだが、音楽の情報量もそれに比例して大変多くなる。第2楽章の中間部など、白熱のあまりアンサンブルが乱れることがあったが音楽の骨格がブレないのはオケと指揮者の相互理解によるところが大きいだろう。知情意のバランスが絶妙な彼の指揮で聴くラフマニノフが悪かろうはずはなく、ドイツオケらしい重心の低さ、突き上げるような甘美さを兼ね備えた名演が繰り広げられた。どの楽章も鳴らす箇所は相当豪奢に鳴らすが、音楽の流れが阻害されることはない。演歌にしようと思えばどこまででも出来てしまう終楽章コーダなど、これ以上ないのではと思えるような完璧なバランスでクライマックスが築かれた。圧巻としか言いようがない。

地元ヘッセンの名門が繰り広げた熱くも清々しいロシアン・プログラム。ラインガウ音楽祭は温泉観光地で行われているということもあるのか、お年を召した方が目立つ客席の反応はやや大人しかった。フランクフルトでの演奏であればもっと指笛が響いていただろう。
ラインガウ音楽祭は比較的地味なフェスティヴァルながら、登場する演奏家は一流が揃っており(この日も別会場で内田光子のリサイタルが行われていた)、フランクフルトから1時間強という優れたアクセスも魅力的だ。ヴィースバーデンの街の美しさも特筆すべきで、最高の余韻と共にフランクフルトへの帰途に就いた。

2015/8/5
フェスタ サマーミューザ KAWASAKI 2015 東京都交響楽団
@ミューザ川崎シンフォニーホール

プロコフィエフ:バレエ音楽「シンデレラ」組曲第1番
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番

管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:四方恭子
指揮:大野和士

都響のサマーミューザは昨年に引き続き硬派なプログラム。インバルのヴァーグナー&ブルックナーは指揮者のソロ・カーテンコールすら起こる熱狂ぶりだったが、新音楽監督大野さんが指揮するプロコフィエフ&ショスタコーヴィチとはこれまた興味深い。

サマーミューザの公開リハーサルは各オケの素の顔が窺える機会だと勝手に思っている。そういう観点で言えば、都響の「すっぴん」はメイク後と殆ど変わらないくらい美しい。他のオケの練習を貶すつもりなど毛頭ないが、都響ほどGPの時点で完成しているオーケストラも珍しいというのは事実だと思うのだ。
いつもこのオケの全力投球ぶりには恐れ入っているが、今回はリハーサルにも拘らず相当たくさんの聴衆が詰め掛けたためか、いつにも増して力のこもった練習。練習という言葉が全く相応しくないと思えるほど、指揮者・オケ共に鋭い切れ味で音楽を紡いでいく。プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ共にとうとう全曲一度も止めずに演奏された。それぞれを通した後には細部の微調整が加わったのだが、一体本番はどうなってしまうのかというような完成度のリハーサルが繰り広げられた。ショスタコーヴィチの演奏後に放たれた盛大な拍手とブラヴォーは、聴衆の驚きと本番への期待をはっきりと表していただろう。
なお、交響曲の後に大野さんはラルゴ冒頭をやり直したのだが、分奏を担うストリングスの一部奏者をしっかりと掌握、より訴求力あるサウンドを引き出した手腕は流石だった。効率もいいし、見抜くポイントも的確だ。

19時からの公演は文字通り満員。当日券も完売したようだ。
一曲目のプロコフィエフ「シンデレラ」組曲第1番は、GPでは精緻ながら単色に近い仕上がりだったのだが、本番では大野さんの指揮、オケのテンション共に一転。劇場人・大野さんを垣間見る変化に富んだバレエ音楽が披露された。ワルツや美しい響きが多い中、各セクションがハイテンポでバトンを渡す「喧嘩」は曲・演奏ともに出色。分厚くも華麗な都響を大野さんが天賦のセンスで操るとこういう息遣いの演奏になるのか、というお手本のよう。これは今後の劇場的作品への期待が高まるというもの。

後半のショスタコーヴィチ5番は、インバルとの演奏がCDにもなった名演だった。大野さんは若き日にチェコ・フィルとこの曲を録音済み。彼の解釈はインバルの冷徹・シニカルな演奏とは全く異なるが、前半に引き続き劇場人としてのドラマトゥルギーを漲らせた強靭なものだ。「強制された歓喜」という言葉を久々に思い出したが、あからさまにギアを踏み込むアッチェレランドや大音響の炸裂は、有名曲となり忘れられかけたこの曲の「狂気」を思い出させるに十分だった。
憤怒の形相の大野さんはGPよりテンポの煽りなどをキツめにしたが、全く動じず解像度高くついて行く都響は流石。音楽監督の棒の意図を、どのセクションも瞬間的に読んでいる。中間楽章での弦の凄みはいよいよ瞠目すべきもので、スケルツォでは冒頭の低弦が豪快に圧倒したかと思えば軽妙な管楽器が輝き、純音楽的な四方コンマスのソロも華を添える。一方でラルゴ楽章は尋常でない緊張感をもって、楽曲の要素を細かく解きほぐしながら進んでいく。指揮者・オケ共にトレモロ一つに対する集中力が音に現れており、実演ではかつて耳にしたことがないほどの静謐な弱音が立ち現れた。フィナーレは中庸なテンポで重厚に進み、トランペットのファンファーレが完璧に鳴る様は鳥肌モノ。コーダでホールを揺るがす大音響に達してもオーケストラは均衡を保ち続ける。

大野さん×都響の新時代は4月から始まったばかりだが、一連の就任披露を踏まえ指揮者・オケの双方が調整を行ったのではないか。海外経験の長い大野さんは先振りが目立っていたが、今回はほぼ音が同時に鳴っていて視覚的な一致が見られた。都響の充実は先述の通りだが、更に日本のオケを超えるスケールと豪快さが加わってきたのは頼もしいばかり。大野さん×都響による真摯な20世紀ロシア音楽プログラムは、鳴り止まぬ拍手と大ブラヴォーで締めくくられた。サントリーサマーのツィンマーマンも楽しみで仕方がない。

「ほぼ日刊サマーミューザ」上のレヴューはこちら。 

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