たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

November 2015

2015/11/30
神奈川フィルハーモニー管弦楽団 特別演奏会
オーケストラ名曲への招待
@ミューザ川崎シンフォニーホール

ブラームス:ピアノ協奏曲第2番
コルンゴルト:シンフォニエッタ
~アンコール~
J. シュトラウス2世:ポルカ「雷鳴と稲妻」

ピアノ:ゲルハルト・オピッツ
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
コンサートマスター:
﨑谷直人
指揮:サッシャ・ゲッツェル

1月の「英雄」「4つの最後の歌」「ブルックナー9番」、4月は紀尾井シンフォニエッタとの「グレイト」でウィーンの風を運んできたマエストロ・ゲッツェル。特に1月の定期は年間ベストに入ろうという素晴らしさで、これほど耽美的な音楽が日本のオケで聴けるのかと思ったほどだ。

今回もやはりウィーンの色を強く感じさせるプログラム。
前半のブラームス「ピアノ協奏曲第2番」、ソロを弾いたのはドイツの名匠オピッツ。コリン・デイヴィス/バイエルン放送響とブラームスの名録音も残す彼だが、今回の演奏もやはり素晴らしかった。派手なアピールこそないものの高度な技巧を要求するこの難曲において、あくまで自然に振る舞っていた。あるべきものが全てある、足し引きしない音楽の尊さは何物にも代えがたい。ドイツの質実剛健なピアニズムに、より包容力が加わった感じ。ゲッツェル/神奈フィルも適度な重量感で推進力をもって進め、オピッツと一緒に呼吸していた。まさに三位一体。第3楽章のソロ・チェロを弾いた山本裕康さん、弓圧の強さというより弓毛をぴったりと弦に付けたまま濃密に弾ききる。フレーズは力強く途切れず、思わず落涙。これまで聴いたブラームスのピアノ協奏曲第2番のソロの中では文句なしのベスト。これほど意志的なソロだったとは思わなかった。

休憩後のコルンゴルト「シンフォニエッタ」、実に作曲家15歳の時の作品。アメリカに転出して生み出す映画音楽の傑作群も予告しながら、ウィーンの甘美を随所で聴かせてしまう佳作だと思った。コルンゴルトは既に職業作曲家としてポジションを固めつつあったようだが、15歳でこんなものを書いてしまうとはまさに神童である。家庭環境にも恵まれた。
Fließendと指定があるように、音楽は流麗に流れ出す。シンフォニエッタ=小交響曲とあるが、音楽的には4楽章構成の堂々たる交響曲だろう。編成も大きい。バルトーク・ピッツィカートも用いた豪奢な管弦楽の書法にはマーラー、R. シュトラウスといった先達の影響も感じさせる。とにかく、消化度が凄いのだ。第2楽章の勇壮な主部と甘いトリオの対比も美しいし、とろけるような第3楽章ではイングリッシュ・ホルンがソロで活躍する。やや不安気味に始まる終楽章も、リズミカルに音楽が動き出せばもう愉悦が勝る。時折淀むような回想をはさみながら、音楽は徐々に小気味良さを増していく。各セクションが総動員され、循環するテーマを高らかに奏して華麗なクライマックスを築くのだ。
ゲッツェルはこの作品をすっかり自家薬籠のものとしており、迷いのない指揮で神奈フィルから豊麗なサウンドを引き出した。指揮者が変わればこれほどオーケストラが変わるのか、という驚きが再び訪れた瞬間だった。彼とコルンゴルトの相性は比類ないものとなっている。是非、次は大傑作「交響曲」を!

アンコールには新年を早くも予見するようなシュトラウス2世のポルカ。こちらがまた「雷マシマシ」の大胆不敵な演奏だった。ゲッツェル×神奈フィルによるニューイヤー・コンサートも待たれる。 

2015/11/29
オッコ・カム指揮フィンランド・ラハティ交響楽団
生誕150年記念 シベリウス交響曲サイクル[3]
@東京オペラシティ・コンサートホール

シベリウス:交響曲第5番
シベリウス:交響曲第6番
シベリウス:交響曲第7番
~アンコール~
シベリウス:アンダンテ・フェスティーヴォ
シベリウス:ある情景のための音楽
シベリウス:交響詩「フィンランディア」

管弦楽:ラハティ交響楽団
指揮:オッコ・カム

カム×ラハティ響のシベリウス・サイクル最終日。今年3度も聴くことになる567を並べた演奏会の2回目となった。

カムは答礼して椅子に腰掛けるなりすぐに冒頭を振り出し、霧がかかった情景が現れる。有名な鐘動機を奏するホルンのバランスは4人でばらばら、跳躍があるトランペット・ソロもやや危なかったりと、ラハティ響は技術的には在京オケの後塵を排している。しかし何度も書いたように、シベリウスと同じ言語を解する強みは持っている。それにアンサンブル精度は徐々に向上し、第3楽章は入念に作り込みで弦の細かな走句の積み重ねもよく聴こえてきた。最後の終結も素晴らしい。

第6番では冒頭からこれまた雰囲気満点、清涼感ある弦の音色がオペラシティを包む。カムの飾らない音楽はこの無垢な交響曲に合っており、野趣に富むスケルツォと柔らかな響きの対比がブルックナーのよう。
軽く答礼を挟んで演奏された第7番では、一転して暗めの響きで押す。シベリウスの告別とも言える深遠な抒情詩を一筆書きで描くカムの棒に、オーケストラが一層よく応えた。

三日間の感謝を告げるような聴衆の熱狂に応え、アンコールはやはり3曲。それも名品アンダンテ・フェスティーヴォで始められた。これがまた絶品で、冒頭から素晴らしい弦の厚み、自然な情感が溢れる。尾高さん/札響で聴いた時の内面的な熱さとも異なる、よりストレートな演奏だった。「フィンランディア」はもはやアナウンス無しですぐにスタート、万感の思いが込められた豪快な演奏に客席はスタンディング・オヴェイション。客席ではかつてのラハティ響シェフ・ヴァンスカが温かくカーテンコールを見守っていた。喝采鳴りやまず、やがてカムとオーケストラ・メンバーがステージに呼び戻されてお開きとなった。

三日とも印象が異なる面白いサイクルだった。ザラリとしたローカルな音色、楽しみました。 

2015/11/28
東京交響楽団 第89回東京オペラシティシリーズ
@東京オペラシティ・コンサートホール

フェルドマン:ヴィオラ・イン・マイ・ライフⅡ
バルトーク:弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽
ドヴォルジャーク:交響曲第8番

ヴィオラ:武生直子
管弦楽:東京交響楽団
コンサートマスター:大谷康子
指揮:ジョナサン・ノット

ノット×東響の主催公演は、今シーズンはこれが最後。このプログラムが来年4月に始まる新シーズンを予告しているのでは、という推察を先日定期演奏会の項で書いた。

一曲目のフェルドマン作品は、極度に凝縮した編成の上にヴィオラが幽玄に舞う音楽。多くの打楽器を含むオーケストラは10人足らずで、ソロを奏でるヴィオラは省かれている。
最初に出てくるのは音楽というより音の連続。それが徐々に呼応して流れを形成していく。ノットはプログラムの対談の中で「とても明るく、かつ青白い光」と語っているが、確かに静謐でこそあれ暗くはない音楽だ。掴みどころがない雰囲気はホールに広がったが、この作品を「演奏会用序曲」的に紹介したノットの知見に感謝したい。何も華々しく会場の温度を上げるだけがイントロダクションではなく、続く作品に相応しい雰囲気をもたらすことも重要な役割だと思うからだ。

続くバルトーク「弦チェレ」はオーケストラが左右2群に分かれ、濃密な対話を全曲で繰り広げる。ほぼ14型の東響の弦は切れ味鋭いアンサンブルを生き物のように蠢かす。ノットの指揮は超辛口、厳しくリズムを締め上げて一寸の隙も見せない。偶数楽章で崩壊寸前でとどまるアンサンブル、奇数楽章の緊張感とテンポ変化封じなど実に見事な指揮だ。疾走する終楽章はカラヤン/ベルリン・フィルを髣髴とさせる怖ろしいハイ・テンポで、狂ったように一体となり加速していく。幕切れもタメを作らず、むしろ雪崩れ込むように終結する。あたかも演奏者一丸となり自我の崩壊を演じるかのように。
この「弦チェレ」第1楽章が始まると、はっと驚かされた。前に演奏されたフェルドマン作品と鮮やかな対比が描かれ、同時にバルトークの進行を予告してもいたと気付いたからだ。純水のように聴き手に浸透するフェルドマン、空恐ろしい緊張を要求するバルトークは類似し、かつ対照的だ。

前半の熱気を引き継いで名曲・ドヴォルジャークの第8番が高らかに演奏された。といってもノットの指揮は、名旋律を流麗に紡ぎワッと聴衆を沸かせる類のものとは全く異なる。土の薫りすら感じる重心の低い低弦をベースに(これがほぼノット/東響の標準装備となってきた!)、ヴァイオリン群の密な対話や対旋律の効果的な抽出で聴かせる。決して力技で押さず、弦楽器の弓圧調整には吟味の跡を確かに感じることができた。オペラシティ・シリーズのリハーサル期間でこの三曲をここまでの水準に仕上げてしまうノットの手腕にも脱帽だが、きっと翌日の新潟定期では更に磨き込まれただろう。トランペット、ホルンといった金管群の充実も手堅く、木管群も素晴らしい音色で歌う。第2楽章の大きなスケール感、嫋々とした旋律美だけに留まらない第3楽章の良さを聴くに、ドヴォルジャークの第8番とはこれほどの聴き応えを持つ曲だったかと再認識した。

ノット監督と東響、次回登壇のオペラシティ・シリーズにおける鮮烈な対比と収束にも大きな期待がかかる。 

2015/11/27
オッコ・カム指揮フィンランド・ラハティ交響楽団
生誕150年記念 シベリウス交響曲サイクル[2]
@東京オペラシティ・コンサートホール

シベリウス:交響曲第3番
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
~ソリスト・アンコール~
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「バラード」

シベリウス:交響曲第4番
~アンコール~
シベリウス:悲しきワルツ
シベリウス:組曲「クリスティアン2世」より ミュゼット
シベリウス:鶴のいる風景

ヴァイオリン:ペッテリ・イーヴォネン
管弦楽:ラハティ交響楽団
指揮:オッコ・カム

オッコ・カム×ラハティ響のシベリウス・サイクル第2弾。人気のヴァイオリン協奏曲が入っているとはいえ、一番渋い組み合わせ。客入りは前日より若干減ったかという印象だが、この日だけ聴きに来た猛者もいるらしい。

やはり12型+Vc、Cb一名ずつという形だが、Va奏者が一名減っていた。病欠?
プログラムによると、第3番はカムがもっとも好む作品らしい。冒頭の低弦に始まる音型から他のシベリウス作品とは趣を異にするというのは、僭越ながら自分も同意見だ。この独特の「シベリウスらしくなさ」に惹かれるのだろうか?
カムの指揮は大らかで、野太く旋律を歌っていく。大まかに外型を整えながら、あとは任せた!という感じ。弦楽器は肝っ玉母さん風のコンマス主導で自発性を発揮した。

続くヴァイオリン協奏曲、ここ最近これという演奏に出会っていない名曲だった。今回の演奏はいわゆる「名演」とは違うものの、田舎風のざっくりした味が楽しい。ソロのイーヴォネンは路傍の楽師という雰囲気で、オケにとけ込んで奏でていく。ピッチの怪しさを歌い込みの入念さでカヴァーしたが、アンコールのイザイはかなり冗長だった。
カムとラハティ響側もイーヴォネンの歌い方に理解があるようで、自在な呼吸。木管などには聴き慣れないフレージングもあり、興味深く聴いた。

休憩を挟んでの第4番、一転してオーケストラの響きは険しさを増す。晴明からの深遠へ、そういうプログラムだろうか?重々しい冒頭から浮き上がるチェロの独奏は、フィンランドの明けない夜の憂鬱を連想させる。1楽章の途中で金管に表れる特徴的な動機は「パルジファル」そっくりで、静謐な情景と合わせてヴァーグナーからの影響はあるかもしれない。第4楽章で象徴的に響く鐘はグロッケンを使用。以前聴いた上岡さん/新日フィルはテューブラーベルだったが、二通りあるようだ。

全体的に1日目より生気を増し、カムの指揮も調子を上げていたように感じた。アンコールでは「鶴のいる風景」が絶品だった。有名な「悲しきワルツ」ではパーヴォのような極端な音量変化は要求せず、自然な感興が描かれた。

2015/11/26
オッコ・カム指揮フィンランド・ラハティ交響楽団
生誕150年記念 シベリウス交響曲サイクル[1]
@東京オペラシティ・コンサートホール

シベリウス:交響曲第1番
シベリウス:交響曲第2番
~アンコール~
シベリウス:組曲「テンペスト」より 第2番第6曲「ミランダ」
シベリウス:行列
シベリウス:劇付随音楽「ペレアスとメリザンド」より 間奏曲

管弦楽:ラハティ交響楽団
指揮:オッコ・カム

各所で祝祭が続くシベリウス年間、目玉の一つであるオッコ・カムとラハティ交響楽団による全曲演奏会。奇しくも(いや、確信犯?)かつてのシェフであるオスモ・ヴァンスカは読響に長期客演中であり、やはりシベリウスの交響曲を多く指揮していた。つい直前までフィンランド放送交響楽団とハンヌ・リントゥも訪れていた音楽都市・東京らしい過密ぶりだ。クリスマス時期にサンタ、いやセーゲルスタムがひょっこり現れても何の違和感もないだろう(笑)

ほぼ作曲順で取り上げられる今回、第1回は初期の人気作2品が組み合わせられた。 
オーケストラは12型にチェロ、コントラバスが1本ずつ多い形。ラハティは小規模な楽団だと思っていたが、想像以上にこじんまりした編成でやって来たようだ。管楽器は曲ごとにローテーション。

オッコ・カムは70手前だが、風貌は結構老けて見える。長時間立っているのが堪えるのか指揮は椅子に腰かけて行う。その割には入退場は普通にスムーズ。
カラヤン・コンクールのご褒美録音としてベルリン・フィルと演奏したシベリウス2番がいまだに代表盤などと言われてしまうカムだが、彼なりのスタイルで独特の老成具合を見せているようだ。オーケストラの方を振り向いてすぐさま音楽を始め、ややぶきっちょな棒で全曲を導いていく。解釈を詰めて聴かせる!というよりはオーケストラに多くを委ね、剛直な流れを断ち切らないことに重点を置いているようだ。
ラハティ響は腕っこきの集団では決してないが、特有の味わいを有する。ほぼ12型にしては十分すぎる位の弦の厚み、管楽器群の色々な意味で「自由な」プレイには強いローカル色を感じた。ヴァンスカと来日した時のシベリウス・サイクルを聴いた方々は「かつての見る影もない」 と評したが、自分にはその基準がないので何とも言えない。時折金管の強奏が必要以上に突き抜けたり、木管のピッチが気持ち悪かったことは認めるが、全体の印象は決して悪くない。そもそもヴィルトゥオーゾ集団を聴きに来たわけではないので・・・。

冒頭の静謐な夜を思わせるクラリネット独奏に始まった第1番、キズ多めながら最後には雄渾な流れが出現した第2番ともに大いに楽しんだが、アンコール3曲が個人的にとても嬉しかった。ベルグルンドのCDの余白でしか聴いたことがないような曲も含め、作曲家と同じ言語を話す集団の強みがそこにはあった。

2015/11/25
≪東京二期会オペラ劇場公演≫
ヨハン・シュトラウス2世『ウィーン気質』 オペレッタ全3幕(日本語訳詞上演)
@日生劇場

J. シュトラウス2世:喜歌劇「ウィーン気質」(全3幕/日本語訳詞上演)

演出:荻田浩一
日本語訳詞:加賀清孝
ギンデルバッハ侯爵:小栗淳一(バリトン)
ツェドラウ伯爵:与儀巧(テノール)
伯爵夫人:塩田美奈子(ソプラノ)
フランツィスカ・カリアリ:醍醐園佳(ソプラノ)
カーグラー:米田毅彦(バリトン)
ペピ:守田由香(ソプラノ)
ヨーゼフ:升島唯博(テノール)
リージ:田中紗綾子(ソプラノ)
ローリ:山下千夏(メゾ・ソプラノ)
合唱:二期会合唱団(合唱指揮:安部克彦)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
指揮:阪哲朗

ウィーンのフォルクスオーパーで大晦日の「こうもり」を振るという、見方によっては小澤征爾のニューイヤーコンサート出演に匹敵する名誉を授かった阪哲朗が二期会の「ウィーン気質」を振る。日本語上演とあっても、これは行かないわけにはいかない。

シュトラウス2世が生前手がけた最後の作品であり、未完に終わったため弟子のミュラーの補筆により世に出た「ウィーン気質」。彼の名ワルツ・ポルカの連続で全体が構成されているため、必然的にオーケストラの充実が求められる。
その点で今回は素晴らしかった。阪哲朗は東フィルにウィーンの血を流し込み、饒舌に音楽を語らせていた。日本の楽団がシュトラウス一家の作品を演ると、とかく杓子定規な演奏になりがちである。2拍目をやや早めに踏み込む独特のリズムには前述した小澤征爾も苦しんだようだが、阪哲朗の指揮は実に鮮やか。意図的に作るというよりは嬉々として振っていたように見受けられた。ポロネーズ、ポルカ、ワルツと種類の異なる舞曲を適切に描き分けるその手腕は鮮やかで、適格な指揮と同じく小股の切れ上がった音楽が上演の質を高めていたといえる。

歌について。日本語上演の利点はセリフがダイレクトに伝わり、舞台で起こっている出来事がよりリアルでひときわ近いものとして感じられることだと思う。という訳で今回は左右の字幕は省かれていたが、意外と舞台から聴こえてくる日本語を識別するのに苦労する場面もあった。主役級の皆さんは総じて聴き取り易かったが、子音を最低限しか飛ばさない日本語の性質は場面によって管弦楽に押されてしまう。(それを含めてよく阪さんは手綱を引っ張っていて素晴らしかった)
具体的なキャストでは、ツェドラウ伯爵の与儀巧さんがズバ抜けて見事。底力ある高音に歯切れ良い発音—9月の読響トリスタンでも瞠目したが、次代を担う輝かしいテノールに大拍手!その他では伯爵夫人、フランツィ、ペピの女声お三方がそれぞれコケティッシュな魅力を振りまき、演技も細やかだった。

荻田浩一氏による演出は、比較的小規模な劇場の規模に見合ったものだった。元宝塚という氏のコンセプトは、良くも悪くもこの作品の親しみ易さを前面に押し出していた感がある。ステージ後方の大きな垂れ幕にはウィーンの宮廷を連想させるモティーフの数々(ハープ等の楽器、尖塔など)がパッチワーク的に並べられ、その前方で舞台が展開される。野外の場面や舞踏会のセットはいずれもやや丸みを帯び、シンプルだ。
全体的に、親しみやすい進行の中に潜んだハプスブルク帝国の多民族性、後の「ばらの騎士」を予見するような抒情の表出は試みられず、ミュージカル的なコミカルさが売りだったのだと思う。オペレッタの専売特許である時事ネタについては適度に盛り込まれていたが(「じぇじぇ!」「びっくりぽん!」)、「首相は仕事なんかしないのさ」というセリフについては皮肉として受け取ってよいのかしら?

2015/11/22
東京交響楽団 第632回定期演奏会
@サントリーホール

リゲティ:ポエム・サンフォニック~100台のメトロノームのための
J. S. バッハ(ストコフスキー編曲):甘き死よ来たれ
R. シュトラウス:ブルレスケ
~ソリスト・アンコール~
ショパン:ワルツ第3番 Op. 34-2

ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

ピアノ:エマニュエル・アックス
管弦楽:東京交響楽団
コンサートマスター:グレブ・ニキティン
指揮:ジョナサン・ノット

首都圏クラシック音楽界の「台風の目」となりつつあるノット×東響による今シーズン最大の意欲作、それが今回のプログラムだ。どの切り口から見ても、天才としか思えない。リゲティを経てJ. S. バッハへ行く流れは既にバンベルクで披露済みとのことだが、全ての構成に必然性があり、かつ斬新極まりない。ノットのような感覚を持つ指揮者を得たオーケストラが飛躍しないわけがないのだ。

ホールに入ると、白塗りのメトロノームがindifferentに時を刻んでいる。舞台の前面に並べられ、両端で数を整えられたそれらの「楽器」は思いのほか少なく見えるものだ。物珍しげに間近で観察する人、しばらく聴いた後ロビーへと戻っていく人―開場から開演までの間聴衆はめいめい行動するが、その30分弱の間に「演奏」は徐々に表情を変えていく。少しずつずらされてチューニングされたメトロノームは最初ノイズにしか聞こえないが、一台、また一台と数を減らしていくと音楽としての骨格があらわになっていく。客電が落とされ、「楽器」が残り僅かになると静かに楽団員、続いてノットが入場して完全な静寂の訪れを待つ。その瞬間までは思ったより長く、一台のメトロノームを2000人の聴衆が固唾を呑んで見守る様子はさながらシュルレアリスム的であった。(もっとも、アンドレ・ブルトンは音楽に対して批判的だったが・・・) 
そして最後のメトロノームが停止すると、静寂から滑らかに音楽が流れ出し、やがてストコフスキーの手が加えられたバッハの敬虔な旋律がホールを包む。これは無から有への移行とも捉えられるだろうが、生から死への旅立ちかもしれない。あたかも、病室のモニタが刻む無機質な電子音が心停止を告げ、黄泉の世界へ人を誘うように。結局は同一事象の裏返しである。
広がった音楽の流れは尚も続く。そのままアタッカで「ブルレスケ」冒頭のティンパニ・ソロが奏され、一気に華美なシュトラウスの音楽が響き渡る。気がつけばピアノの前には既にアックスが座っている。そう、彼もまた静々と入場していたのだ。
豪壮な作曲家一流のピアノ協奏曲である「ブルレスケ」だが、曲の持つ諧謔味が今回ばかりは冥界からのいたずらのように響く。思えばブルレスケとはマーラーが第9交響曲の第3楽章でシニカルに用いた様式であり、悪魔的な側面はもともと有している。巨匠アックスは流石に華麗なソロを披露し、曲中に散りばめられた技巧的な難所も危なげない。オケもシュトラウスの語法に長けていると感じた。

場違いなくらい陽気に喝采に応え、アンコールまで披露したアックスにより少々現実に引き戻されつつ、客席に戻ると再び異世界へ誘われる。ノットは登壇するとすぐに振りはじめ、ショスタコーヴィチ冒頭のフルート・ソロが響く。音域を広く使った、問題提起ふうのソロに続く弦楽のピッツィカートがとても良い。艶消しされ、重心が低くそれでいて芯は確かだ。ノットは全楽章ごく自然体で振り続け、頻出するソロを奏するトップ奏者たちとの目に見えない交流を楽しんでいるようだった。時折激昂して荒々しくトゥッティが炸裂しても、すぐ平静に戻る。ノット自身がその感情の振れ幅を指揮で体現する。(そして、恐らく彼はそんな自分を俯瞰して冷静に見ているのだろう)
思えば、全ての要素が有機的に絡み合っていたのだ。ショスタコーヴィチ自身が生涯用いた革命歌の断片、チェロ協奏曲第2番のホルン動機などは第1楽章から現れる。また、第4楽章で現れる葬送行進曲動機、トリスタン動機はノット/東響によるこれまでの、またこれからのヴァーグナー演奏を語っている。そして、打楽器に始まり打楽器で終わる構成は前半に演奏された「ブルレスケ」と共通するのだ。より大きな視点で見ると、今回のプログラム全体が打音に始まり打音で終わっていく。その意味するところは、作曲家ショスタコーヴィチの死であったのか、それともより普遍的で大きな存在であったのか―。結論は委ねられている。
ショスタコーヴィチ15番という曲ではなく、専らこの演奏会における演奏の意義について書いてしまったが、演奏そのものも素晴らしかった。管楽器のソロに若干余裕のないパートもあったが、ドイツ放送オケ風の重心が低く、かつ機動力の高いサウンドは在京随一の水準である。ショスタコーヴィチ演奏における「文脈」の読み取りは、いまや完全に演奏者の自由となったことも痛感した。

最後に、この定期演奏会から一週間後に行われたオペラシティでの公演後、マエストロ・ノットにお伺いして「その通りだ」とお返事を頂けた点について記しておきたい。
マエストロはこの定期演奏会で静から静への円環を描き、東洋的円環思想である輪廻転生をも暗喩した(=東京という地でオーケストラの監督を務めることへの意思表示でもあっただろう)。だがそれに留まらず、今シーズン最後と来シーズン初め―これもレトリック的な意味があるのか?―に振るオペラシティ公演を繋げてみると、円環が浮かび上がるのだ。11月28日のオペラシティシリーズで冒頭に演奏されたのは、限りなく静寂に近いフェルドマン作品。そして、来年4月16日の同シリーズを締めくくるのが、R. シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」。自然と人間の対立のうちに、静へと戻っていく楽曲だ。

ジョナサン・ノットと東響の冒険をあと10年も楽しむことができる。こんな恵まれた時代にいることに、ただ感謝する他はない。

2015/11/21
新日本フィルハーモニー交響楽団 第550回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール

モーツァルト:ピアノ協奏曲第12番
~ソリスト・アンコール~
ジェローム・カーン(ステファン・プルーツマン編曲):All the Things You Are

ラフマニノフ:交響曲第2番

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:崔文洙
指揮・ピアノ:レオン・フライシャー

かつて新日フィルと度々共演したというフライシャー、1998年以来久々の登場となった。セル/クリーヴランド管との一連の録音は愛聴するところだが、生演奏に接するのはピアニスト・指揮者いずれも初めて。

コントラバス下手のヴァイオリン両翼配置、ピアノはオーケストラと向き合う形でモーツァルトは演奏された。
御年87歳のフライシャーは流石に技術的に危うげな所が無いではないのだが、綻びすら愛したくなる切々とした音楽の運び。音楽の行間を親密に埋めていくNJPの弦も美しく、このオケにはこういうスタイルの音楽が案外向いているのかもしれないと思った。これぞ「大きな室内楽」。
アンコールは自らのアナウンスで「今日の演奏会で引退されるCb安保さんへ」と告げて、ジェローム・カーンの"All the Things You Are"を左手アレンジで。片手とは思えぬ表情の豊かさ、寛いだ素晴らしさは流石で、沁み渡る余韻を残した。

後半はラフマニノフの交響曲第2番で、オーケストラはぐっと拡大。フライシャーは椅子に腰掛けて振るが指揮姿は矍鑠としていた。
1時間を超える雄大なテンポで表現された楽曲は、綿々と歌われるロマンより透徹した美意識を感じるものだった。敢えて言えばシベリウスの静寂感すら感じたと言っても良い。こんな感触をラフマニノフの2番で得るとは全く予想外だったが、悠々自適としたフライシャーの音楽性なのだろうか。新日フィルはそんな意思を見事に音化しており、全セクションが共感に満ちた演奏をした。第3楽章のクラリネットソロなど木管群の息の長い歌をはじめ、遅めのテンポを停滞させずに聴かせてくれた。弦には時折立ち止まり思索するような抒情が浮かび、金管も華美よりは融け合ったサウンド。第4楽章の威容は輝かしく、どこか「喪われし時代」という言葉が脳裏をよぎったのは若きフライシャーが活躍した1960年代の音楽シーンが念頭にあったからだろうか。
セルやオーマンディが振った音楽をフライシャーが肌で感じていたということがよく分かる、愛すべきラフマニノフ2番であった。いつまでも記憶に留めたい温かな余韻を得て帰宅。

2015/11/20
NHK交響楽団 第1821回定期公演 Cプログラム
@NHKホール

ショパン:ピアノ協奏曲第1番
~ソリスト・アンコール~
ショパン:前奏曲 Op. 28 第4番

グラズノフ:バレエ音楽「四季」より 秋
ハチャトゥリアン:バレエ組曲「ガイーヌ」より
剣の舞
ばらの少女たちの踊り
子守歌
レズギンカ舞曲
チャイコフスキー:祝典序曲「1812年」

ピアノ:チョ・ソンジン
管弦楽:NHK交響楽団
コンサートマスター:伊藤亮太郎
指揮:ヴラディーミル・フェドセーエフ
 

今年4月のN響客演、およびチャイコフスキー・シンフォニー(旧モスクワ放送響)との来日公演で絶賛を呼んだフェドセーエフが再びN響に戻ってきた。これだけの頻度で巨匠を聴ける日本のファンは恵まれているに違いない。一時重篤の報を聞いた時は最悪の事態を覚悟したが、本当にうれしい。

前プロは何故かショパンのピアノ協奏曲第1番。というのも、つい先日開催されたショパン・コンクールの覇者の登場が前々から呼び物だったからだ。想像するに、こういったコンクールの結果が決まると、ドミノのように次々とスケジュールが埋まっていくのだろう。音楽ビジネスの世界は轟々と動いている。
そんな期待十分のソリストはチョ・ソンジン。以前プレトニョフ/東フィルとの共演でもショパンを聴いたが、ほとんど記憶にない。その時はオーケストレーションに大々的な変更が加わったプレトニョフ版なるものだったため、勝手に版のせいにしたのだが、今回は果たして。
結論から言うと、ちっとも面白くなかった。技術的には当たり前に上手いのだが、フレージングに工夫があるでもなし、オーケストラと共同作業をするという気概を見せるでもなし(演奏後の対応を見るに、オーケストラと指揮者はただの伴奏程度にしか思っていないのでは?)。以前の東フィル客演と同様、ほとんど印象に残らない演奏だった。フェドセーエフは手堅く伴奏を作っていったが、彼にこの曲を振らせてしまうのは何とも勿体ないことだ。
演奏後は高齢でやや足取りが重いフェドセーエフを気遣うこともなく、一人でスタスタと答礼を繰り返す。客席で見ているこちらとしても何とも違和感の残る光景だった―若くてステージマナーを知らない、という声もあろうが、既に一定の名声を得ている演奏家の取る態度であろうか?個人的にはきわめて不快だった。

気を取り直して、休憩後はマエストロの十八番であるロシア名曲集だ。どことなく先日の小泉さん/都響の「肖像」シリーズのプログラムと類似している。 冒頭からグラズノフ「四季」の最後を彩る「秋」が煌びやかに響く。小泉さんのほぼ倍遅いテンポ(どちらが標準的なのだろう?)で展開される懐深いサウンドは、フェドセーエフ特有のものだ。静動がたびたび対比される音楽だが、その静の部分がこれほど甘い抒情を湛えていたとは、この演奏を聴いて初めて思い知らされた。
続く「ガイーヌ」抜粋も愉しいことこの上ない!マエストロの魔法のタクトにN響のメンバーもよく反応し、「剣の舞」では冒頭の刻みから弦の裏拍が引っかかり強めで野性味がある。もはや伝説となった「レズギンカ」では、サモイロフこそ不在ながらN響の誇る名手竹島さんが素晴らしい音で妙技を魅せた。和製サモイロフとお呼びしても差し支えないだろうか?軽やかに決まるリムショット、即興的な強調はまさにフェドセーエフの「レズギンカ」だ。
ここで既に客席のヴォルテージは最高潮だが、金管別働隊がオーケストラの奥に入場して「1812年」が始まる。 フェドセーエフは重心低いサウンドを存分に引き出し、冒頭のロシア正教聖歌から思い入れたっぷり。決して華美な路線を行かず、荘重なロシアの大管弦楽曲として仕上げていた。バス・ドラムのキャノン砲はなかなかの威力だったが、 もうひと押し欲しい(小泉さん/都響の演奏ではマレットが吹っ飛んでしまった!)。最後にすべてを掻き消すように鳴らされるチャイムを思い切り伸ばしたのも心憎い。

前半がチャイコフスキーの協奏曲あたりだったら最高の演奏会だったろうが、惜しい。コンクールの優勝者が登場する公演というのはスリリングで悪くないが、演奏の質が保証できないという意味で自分は懐疑的である。 

2015/11/17
テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ
~エル・システマ創設40周年記念~
@東京芸術劇場

R. シュトラウス: 交響詩「ドン・ファン」
ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
~ソリスト・アンコール~
小曽根真:Reborn

R. シュトラウス: 交響詩「英雄の生涯」
~アンコール~
アブレウ:ティコティコ
ペレス・プラード:マンボ
バーンスタイン:ミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」より マンボ
ペドロ・エリアス・グティエレス:アルマ・ジャネラ

ピアノ:小曽根真
管弦楽:テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ・オブ・ヴェネズエラ
コンサートマスター:Lila Carolina Vivas Blanco
指揮:クリスティアン・バスケス

日本にも浸透しつつある音楽教育プロジェクト「エル・システマ」の母国から、ドゥダメル×シモン・ボリヴァル響の後釜と言うべき若武者たちがやってきた。率いるのはクリスティアン・バスケス。彼もまた、ドゥダメルやマテウスらに続き欧米でも活躍する若き指揮者だ。

彼らは、とにかく全編ひた押しに押して行く音楽を繰り広げた。22-20-16-14-12という巨大な弦5部の厚みは比類ないし、管楽器もほぼ4管編成だ。冒頭および後半のリヒャルト・シュトラウスでの音の渦は作曲家が聴いても仰天するだろう。それでいて、怒号のように耳を劈く音色ではなくてどことなく丸みを感じさせるのがまた佳い。(芸術劇場の音響も好作用しただろう)「英雄の生涯」でテンコ盛りの管楽器ソロもほぼパーフェクトで、シモン・ボリヴァルのメンバーより更に若年期から指導を受けているというテレサ・カレーニョのメンバーの素晴らしさを味わった。「ドン・ファン」「英雄の生涯」の両方で見事なソロを吹いたホルンの第1奏者は大したものだ。ただ、ヴァイオリン・ソロだけはやたらとクドく、協奏曲のカデンツァのように「自由」だった。
バスケスはこの血気盛んな若者たちのオーケストラを気負いなく統率、壮年期のアバドそっくりのしなやかな棒で全曲を描いていった。特に個性を発揮する場面はなく、強いて言えば「英雄の生涯」において「戦場」 の頂点で英雄動機の回帰に向けてテンポを落としていった点だろうか。オーケストラの音量が常にメゾ・フォルテより上なのは気になるが、これは仕方のない問題かもしれない。
余談だが、今世紀に入って急速にアバドのDNAを継ぐ指揮者が続出している気がする。それ自体は良いことだと思うが―。

なお、冒頭のラフマニノフ「パガニーニ狂詩曲」では例によって小曽根真が盛大に即興を盛り込んだソロを披露、若いオーケストラもそれにノリ良く応じており、一種のグルーヴ感が生まれていたのが印象的だった。小曽根さんはスタイルに捉われない良さがあるが、終演後の聴衆への語りかけを自ら英訳してオーケストラに伝えながら意思の疎通をアピール、数日前のパリでのテロ事件への追悼と超克の意を込めてアンコールを奏した。(なお、開演前にもオーケストラ・聴衆ともに黙祷を行った)

「英雄の生涯」の後には名物のド派手なアンコール尽くし、ヴェネズエラ・カラーのジャケットに早変わりしてお祭り騒ぎのオンパレードとなった。煽り、煽られ、ここまで来ると完全にライヴのノリだが、たまにはこういう演奏会も悪くない。終演は22時近くとなった。 

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