たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

November 2015

2015/11/15
内田光子ピアノ・リサイタル 2015
@サントリーホール

シューベルト: 4つの即興曲 op.142 D.935
ベートーヴェン:ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲

ピアノ:内田光子

内田光子のピアノリサイタル、第2夜である。前半の即興曲が後半4曲に差し替わり、ディアベッリ変奏曲は共通。至ってシンプルであり、作曲家の到達点を存分に感じられる組み合わせ。

先日の前半4曲でもそうだったが、内田光子の集中力は尋常でない。一旦ピアノに向かってしまえば、憑かれたように作品の世界に没入して最後まで帰ってこない。この鬼気迫る没入、彼女の音世界の表出が苦手な人もいるのはよく分かるが、自分は本当に脱帽してしまう。 
晩年のシューベルト特有の、美しい音を求めていたら気が付けば彼岸すれすれ―いや、対岸かもしれない―に辿り着いてしまったことに気づき、ふと我に返るような音楽の運び。この、危うさの中に秘められた美を、内田光子はまさに体現していた。第3楽章のロザムンデ変奏曲が淑やかに始まり、分散和音の連続を伴いながら狂おしく転調し、また主題に回帰するのは象徴的だ。なんという音楽だろう。

後半のディアベッリ変奏曲であるが、こちらは第1夜とは共通のプログラムにも係らずまったく違う印象を受けた。作品への取り組み方が変わっているとは思わないのだが、明らかにこの日の方が荒々しい。さらに野卑な言い方をすれば「猛り狂っていた」とでも言おうか。
進行につれて深遠さが増していくのは曲自体の性格であり、内田光子は第32変奏のフーガに向けて音楽の密度を集中させた。山の頂点を置く、というよりは、地下へ続くトンネルの最深、という方が相応しいだろう。そして、すべてが停止するようなフーガの後には何事もなかったかのようなメヌエットが返ってくる。すると、聴き手は唐突な感覚に襲われることになるのだ。「あれ、今まで見ていたものはどこへ行ったの?何だったの?」と。集団催眠にかかったのではないか、とすら錯覚する。これが内田光子の凄さなのか―。

これは邪推かもしれないが、記しておく。内田光子の表現の変貌は、公演の2日前に起こったパリでの惨事に対する彼女なりのレスポンスではないか?そんな軽薄なものではない、とお叱りを受けるのは分かっているのだが、真に求道的な芸術家とは世界の動き、それにより起こる聴衆の微妙な空気感の変化にも反応してしまうものではないだろうか。彼女はおそらく意図せずして、時代を超えたベートーヴェンの普遍的な言葉を代弁したのではなかろうか。世界の平安という永遠の問いに対する一つの返答、大袈裟でなくそう感じられた恐るべきディアベッリ変奏曲であった。
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2015/11/15
東京芸術劇場&ミューザ川崎シンフォニーホール共同企画
第6回音楽大学オーケストラ・フェスティバル2015
上野学園大学&東京藝術大学
@東京芸術劇場コンサートホール

細川大晃:界・響(世界初演)
ファンファーレ演奏:東京藝術大学
ファンファーレ指揮:松本宗利音

ストラヴィンスキー:管楽器のための交響曲(1947年版)
ペルト:カントゥス ― ベンジャミン・ブリテンの思い出に
ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム

管弦楽:上野学園大学管弦楽団
コンサートマスター:堀越瑞生
指揮:下野竜也


―(休憩)

三浦良明:“群青”(世界初演)
ファンファーレ演奏:上野学園大学


R. シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

管弦楽:東京藝大シンフォニー・オーケストラ
コンサートマスター:齋藤澪緒
指揮:山下一史

ミューザ川崎シンフォニーホールと東京芸術劇場が共催する「音楽大学オーケストラフェスティバル」。自分はあいにくこの日しか聴けないのだが、とても意義深い公演で満足だった。 

運動会の応援合戦よろしく、各校の演奏前には親睦と激励の意味でファンファーレが演奏される。上野学園の前に藝大、その逆も然り、という図式だ。

東京藝大のファンファーレ隊は、巨大なオルガン(この日はバルタン星人)の前のバルコニーで演奏した。金管の中心には鈴の奏者が立ち、祭祀的な雰囲気を醸す。指揮の宗利音さん―少し前の「題名のない音楽会」でお見かけした御仁だ―は舞台上で振る。コンサートの幕開けに際して、日常から非日常への「鳥居」をくぐるような作品という触書きがあったが、なるほどという感じ。

下野さんはプロ・オケでも常に問題提起をはらんだプログラムを持ってくるが、今回の上野学園大との演目も到底オーソドックスとはいえない、個性の強いものだ。
ドビュッシーの追憶である「ストラヴィンスキーの管弦楽のための交響曲」が冒頭に置かれた。ちなみに、原題の"Symphonies d'instruments à vents"は、『管楽器の共鳴』に近い意味合いだそうだが、定着している訳なので従来どおり表記する。続いてブリテン追憶のペルト「カントゥス」、最後にブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」。これは憶測でしかないが、ストラヴィンスキーのパーソナルな追憶から、生涯に第2次大戦を背負ったブリテンという存在へのペルトの追憶、そして魂への普遍的な祈りであるブリテン作品へと、聴くものの視点は演奏順に従って広がっていくのではないか。
演奏は想像以上に素晴らしかった、と言っては甚だ失礼なのだが、これが嘘偽りなき感想である。 管楽器の人数に比して弦楽器はかなり少数だった(Cb4本)が、バランス的には問題なかった。冒頭からハイトーンが要求されるストラヴィンスキーでの集中力は素晴らしかったし、アタッカで演奏されたペルト&ブリテンでは下野さんの指揮がこれ以上望みようが無いほど明確で、なおかつ力がこもっていた。全てが砂漠と化したようなペルトの無の音楽に続き、「シンフォニア・ダ・レクイエム」の容赦ない鉄槌が下される瞬間は、真に無慈悲であるが受け入れざるを得ない。直前に起こったあの痛ましい事件は、当然演奏者の脳裏にあっただろう。

休憩後は上野学園大のファンファーレに始まる。こちらは演奏者がステージ前面まで出てきて、指揮者なしのアンサンブル。邦楽の薫りがした藝大に比して、真っ当なファンファーレだった。(こちらのほうが好み)

東京藝大シンフォニー・オーケストラはプロ・オケを思わせる黒に統一されたステージ衣装で、ぐっと引き締まって見える。ティンパニなどの楽器も年季が入っているように見えたが気のせいか?
「ツァラトゥストラはかく語りき」は練達のオーケストラでも難曲であり、トランペットをはじめとする管楽器のソロも難所が多い。その点、セミプロ水準であるこの団体は技術的に驚くべき到達点を示していた。弦楽器の量感、引き締まった表情やトップ奏者の艶やかなゾリ、鮮やかに決まる金管群のソロなど、その演奏にはある種の風格すら漂う。山下一史は暗譜(この曲では珍しいのでは?)で振り、若干呼吸のぎこちなさを感じさせるも全体的には巧みな構築だった。後半はこの当然この一曲だけで、聴後の充実感は十分であった。一点注文を付けるならば、舞台上での異音は圧倒的に後半の方が気になった。やむを得ない部分もあるとは思うが、惜しい。

鬼気迫る下野さんの指揮に憑かれたように応えた上野学園大と、余裕を持って優れた実力を見せ付けた東京藝大。どちらも甲乙付けがたい好演であり、未来のオーケストラ・プレイヤーの明るい展望を強く感じた演奏会だった。
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2015/11/15
東京交響楽団 モーツァルト・マチネ 第23回
@ミューザ川崎シンフォニーホール

モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より
序曲
セレナード「窓辺においで」
アリア「シャンパンの歌」

チャイコフスキー:組曲第4番「モーツァルティアーナ」


~アンコール~
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲


ヴァイオリン:グレブ・ニキティン
バリトン:甲斐栄次郎
管弦楽:東京交響楽団

コンパクトなプログラムながら良質な演奏で評判の東響×ミューザ川崎「モーツァルト・マチネ」、今回は指揮者なしということでコンサートマスターのニキティンを中心に演奏された。

ノット監督がいなくてもオーケストラは対向配置、すっかりそのメソッドが染み付いているのかも。10-10-8-6-4だったと思うが角度的にはっきり見えなかったので自信はない。
冒頭の「ドン・ジョヴァンニ」序曲、ニキティンはコンマス席からいつもよりやや大き目の身振りでオーケストラをリード。ややサウンドにざらつきが感じられたが、闊達な表情はすばらしい。その後、バリトンの甲斐さんを迎えて「シャンパンの歌」と有名なセレナードが演奏されたが、演奏時間はたったの5分ほどで勿体無い。というか物足りない。演奏自体は甲斐さんらしい堂々たるもので、 どちらかというと長めのフレーズで構成されているセレナードで朗々と美声を振りまいた感があった。口角泡を飛ばす「シャンパンの歌」は悪くなかったけれども、早口になるとどうしても響きが浅くなってしまう。なおオーケストラにはマンドリンも加わりリラックスした表情。

続くチャイコフスキー「モーツァルティアーナ」、文字通りモーツァルトに魅せられたチャイコフスキーによるオムニバス的作品だ。途中「アヴェ・ヴェルム・コルプス」のリスト編曲を元に作られた曲も入っており、モーツァルトの清冽な美しさとチャイコフスキーのしっとりした哀感が合わさってなんとも言えない魅力がある。
ここではニキティンはまず指揮者として登場し、 ヴァイオリンを左側の台に置いて自らは立って指揮に専念する。モスクワ音楽院のヴァイオリン科を卒業した後、再度入学して指揮をも修めたニキティン。決して流麗ではなかったが堅実にオーケストラを導いて水準以上の演奏となった。ヴァイオリン・ソロを交え弾き振りするのは見た目にも華やかだ。演奏後の彼の腰の低い姿勢は、オーケストラとの絆の確かさを感じさせた。

最後にはアンコールということで、再びニキティンがコンマス席に戻り「フィガロの結婚」序曲。尻上がりに合奏のクオリティが上がってきた今回のマチネだが、その成果はこの一曲に結実。すばらしく魅力的なフルート、オーボエ、ファゴットなどの充実に加え、精緻な弦の魅力がホールいっぱいに響く。東響の変わらず高い合奏能力、モーツァルトに対する確かな適性を感じたよい公演だった。 
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2015/11/14
NHK交響楽団 第1820回定期公演 Aプログラム
@NHKホール

マーラー:交響曲第5番より第4楽章
マーラー:歌曲集「リュッケルトによる5つの歌」
チャイコフスキー:交響曲第5番

ソプラノ:ケイト・ロイヤル
管弦楽:NHK交響楽団
コンサートマスター:ベルンハルト・ハルトーク
指揮:ディエゴ・マテウス

2011年にサイトウ・キネン・オケへの客演で日本デビューを飾った俊英・マテウスがN響定期に登場。このオーケストラへの客演は2度目で、晴れて定期デビューだという。

前半にマーラー、後半にチャイコフスキーという構成にあまり意志的なものは感じられない。何か繋がりがあるのだろうか?インバルの後任としてフェニーチェ劇場の舵取りを担う彼としては、歌モノにおける実力も見せておきたかったのかもしれないが。
ゲスト・コンマスはベルリン・ドイツ響やバイロイト祝祭管を歴任したヴェテラン、ハルトーク。

一曲目のアダージェット、N響の弦らしい美しく密度の高い響きが魅力的で、歌心にも欠けていない。だが細かく指定された音量変化や随所のささくれへの配慮はあまり感じられず、良く言えば大らかな演奏だった。マーラーの5番からこの楽章のみを抜き出して演奏する場合の仕上がり具合はこんなものかな、と変に納得。
続くリュッケルトではソプラノに英国出身のケイト・ロイヤルを迎えた。彼女は2009年にロス・フィルとの共演で聴いているが、好印象だった。(エラス=カサド指揮でメンデルスゾーンとマーラーの4番。テミルカーノフの代役だったエラス=カサドは当時ほとんど無名だった気がする)その後ラトル/BPhでの「復活」などでも歌っているので、マーラーは大事なレパートリーなのだろう。
今回の演奏は、決して悪くなかったのだがそれほど印象にも残らなかった。これは歌合戦ホールの害悪が出た感じ。細かいニュアンスがことごとく霧散してしまう。もっと小さなホールで聴きたい人。マテウスの指揮は何処かよそよそしく、振り慣れていない感じだった。

後半のチャイコフスキー5番でマテウスはようやく本領発揮。暗譜で振ったし、オーケストラの入魂度もまるで違う。(バリバリと響くバストロンボーン!)
若手指揮者に厳しいとされるN響だが、だいぶ事情は変わってきたのではないか。パーヴォとの妥協ないぶつかり合いを経て、指揮者への反応がよりヴィヴィッドになってきた感がある。それを引き出してしまうマテウスの掌握力もすごい。
マテウスは情念を思うままに開放するような音楽作りをせず、がっしりと響きを構築していくタイプの指揮でオーケストラを率いていく。全体的に響きは硬質で、強奏の鳴りはびりつくよう。だが時折グイと音楽をしならせ、それをふわりと柔らかく着地させる手腕は老練なもので、驚いた。指揮姿、音楽の方向性などからしてイタリアの巨匠たちを思わせるのだが、それが決して姑息なコピーでないのが素晴らしい。第2楽章の息の長いスケール感はまだまだこれからだろうが、両端楽章は既に完成の域に達している。

また一人素晴らしい若手指揮者を聴くことが出来て嬉しいし、何よりマテウスはどこか「本格派」という感じが漂っている。N響は終演後彼に盛んな喝采を送っていた。定期デビューは大成功だろう。
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2015/11/10
内田光子ピアノ・リサイタル 2015
@サントリーホール

シューベルト: 4つの即興曲 op.90 D.899
ベートーヴェン:ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲

ピアノ:内田光子

思索の旅を続けるピアニスト、内田光子によるリサイタル。サントリーホールでの公演は2013年以来2年ぶりという。シューベルト、ベートーヴェンの晩年の作品を組み合わせたプログラムだ。

シューベルト晩年、1827年の同時期に作曲された2つの即興曲集。リサイタル第一夜ではまず前半のD.899が演奏された。第二夜のD.935も紛れも無い名作なのだが、こちらは4楽章構成のソナタ的な性格を持っている。(とはいえ、ソナタとはまったく別物なのだが)
個人的には、より柔軟で形式にとらわれないD.899を好んでいる―というのは勝手なお話。

内田光子の演奏は、冒頭のGのオクターヴから力強く響く。虚ろ気な主題が灰色の空に漂うような、晩年の作曲家特有の音世界がはっきりと広がっていく。曖昧模糊な部分はまったく無く、むしろ意志的に構築されたシューベルトだ。第2曲は一転愛くるしく始まるが、すぐに不安の影がまとわりついてくる。悠久の第3曲からの第4曲の流れは、筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい。あちらの世界に半分足を踏み入れたからこそ、これほどまでに生死の境目を自在に行き来する様な音楽が書けたのだろうし、逆にこんな音楽を書いてしまったからこそ向う岸から呼ばれたのかもしれない。

息の詰まるような感慨を覚えながら、休憩後には大作「ディアベッリ変奏曲」。幾多のピアニストを恐れさせるこの変奏曲は、古くはバックハウスの名盤があるし、ブレンデルの録音も名高い。自分のライブラリを見てみるとソコロフ、シフのものもあった。当夜の内田光子はまだ録音していないが、「心技体が充実した今のうちにやっておきたい」という意欲で臨むとのこと。
冒頭の陳腐なワルツ主題が終わると、すぐにベートーヴェンの返答がある。まるで、ディアベッリの提示した旋律への苛立ちの音画であるかのように、揚々と、それでいて繊細に音楽は進んでいく。前半のシューベルトが死を目前としながら妖しい美へ溺れていったとするならば、ベートーヴェンは最後まで反骨精神を崩さず、芸術的な高みへと昇華させていたのだ。第20変奏から、「ドン・ジョヴァンニ」の旋律までもが引用される第22変奏までの瞬発的な機微が凄い。針気を逆立てたハリネズミのような怒気にも似た集中力が彼女ほど続くピアニストを、自分は他に知らない。

じゅうぶん素晴らしかった第一夜だったが、15日の第二夜では更に予想だにせぬ驚きを抱くことになった。 
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2015/11/8
新日本フィルハーモニー交響楽団 第549回定期演奏会
@サントリーホール

ディーン:ドラマティス・ペルソネ(日本初演)
~ソリスト・アンコール~
Miles Davis: My Funny Valentine

ブルックナー:交響曲第7番
(ベンヤミン=グンナー・コールスによる2015年校訂版/日本初演)


トランペット:ホーカン・ハーデンベルガー
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:崔文洙
指揮:ダニエル・ハーディング

メッツマッハーとの両頭体制が終わり、実質シェフ扱いのハーディングと新日フィルの演奏会。昨夏ツィンマーマンのトランペット協奏曲「誰も知らない私の悩み」で圧倒的な演奏を聴かせたハーデンベルガーを伴っての登場である。

ディーンの「ドラマティス・ペルソネ」はハーデンベルガーに献呈され、ネルソンス/ボストン響との演奏でお披露目になった作品。表題のラテン語は英訳すると"persons of the drama"であり、「スーパーヒーローの転落」「独白」「偶発的革命」 という三楽章それぞれで別々の性格を演じ分けるソロ・トランペットに当てはめられている。
冒頭から打楽器による木質のチャカポコで始まり、すぐに管弦楽に飛び火してソロとのリズミカルな掛け合いへ発展する。大編成のオーケストラ、ソロ・トランペットともに特殊奏法含め全く休みどころの無い作品であり、練習はかなり困難を極めただろう。だが、その割に曲の魅力がダイレクトに伝わってこなかったのは曲の長さ(30分!)ゆえか?随所に興味深い響きは聴かれたものの、飽きてしまった。 
ハーデンベルガーのソロはアンコールの"My Funny Valentine"(昨年とは若干アレンジが異なった)共々圧巻というほか無く、昨年に引き続きほとんど呼吸のような自在さで歌われる。弱音からオケを軽々と超えて届く強奏まで、絶対的安定感を持つ最強のトランペッターだ。

後半のブルックナー7番。当初発表では一般的なノヴァーク版使用とのことだったが、演奏会近日になってベンヤミン=グンナー・コールスによる最新の校訂版が使用されると発表された。アーノンクール/WPhやラトル/BPhがブルックナー9番で彼の携わった楽譜により録音したのは、一部話題になった。なんでも、ブルックナーの自筆譜、ノヴァーク版、ハース版、改訂版それぞれの相違点を見直し、修正した結果が反映されているそうな。聴感上の違いはそれほど無いだろうと思っていたのだが、意外と少なくなかった。第1楽章第1主題が再度登場する箇所でホルンが飛び出すのは明確な違いだし、そのほかにもホルンが重ねられる箇所が増えている。詳細は分からないが第2楽章にも違いあり。第4楽章はテンポ変化が多く、ほぼノヴァーク版と同じ指示ということだろうか。
ハーディングが新日フィルでブルックナーを振るのは「8番」「5番」に引き続き3回目だと思うが、彼のブルックナーは先達アバドの影響がかなり大きいように思われる。第1楽章序盤でオーケストラが大きく膨れ上がり第3主題へ移行する箇所、コーダでアッチェレランドをかけるのは全く同じだ。その他にも、主題ごとにテンポに明快な差異をつける。それ自体は別段悪いことではないのだが、第2楽章第2主題のテンポ設定はあまりに性急で、楽譜指定のモデラートより速い。ハイドンのメヌエットのようにサラサラと奏されていくのは個人的に強い違和感があり、好みではなかった。以後は真っ当に進み、第4楽章のテンポ変化も先述の通りはっきりと付けられる。
新日フィルはスケール感に富んだ好演で、全曲ほぼ破綻無く演奏した。ただ明らかに演奏の足を引っ張っていたのはホルンの第1奏者で、根本的な問題があると思われる。原始霧の中から現れる冒頭はいきなり突出し、しかも管が壊れたような素っ頓狂なEの音。その後もセクションから乖離していたのは気になった。

ハーディング×新日フィルのコンビネーションにはいまいち心動かされることがないのだが、ブルックナーに関してはまずまずといったところだろうか。少なくとも前回の「5番」よりは遥かに仕上がりはよかった。来年の戦争レクイエムに期待がかかる。 
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2015/11/7
日本フィルハーモニー交響楽団 第675回東京定期演奏会
@サントリーホール

シベリウス:歴史的情景第1番
シベリウス:組曲「ベルシャザールの饗宴」
マーラー:交響曲「大地の歌」

テノール:西村悟
バリトン:河野克典
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:千葉清加
指揮:ピエタリ・インキネン

インキネンが日フィルの次期首席指揮者に就任することが発表されてから初の演奏会、このコンビが揚々と続けるシベリウス×マーラーである。当初メゾ・ソプラノを迎えての「ルオノンタール」が演目に入っていたが、メゾ歌手の出産のため変更になり、やはりシベリウスの小品2つになった。それは良いとして、「大地の歌」の独唱が男声2人になったのは個人的に少し残念。

前半のシベリウス2品は、この作曲家には珍しく祝祭的な表情が全面に出る作品。「ベルシャザール」の夜想曲には内省的な表情も出るが、東洋風やスペイン風など、様々な様式で音楽が盛り上がっていく。インキネン×日フィルらしい作曲家の語法をよく消化した演奏で、清澄さと骨太な力強さが両立されていた。一階席最前列下手側のご老人がビニール袋のカサカサ音をかなり長い間立てていたのがとても残念。あれだけやられると流石にオーケストラの集中力に関わるだろう。

後半「大地の歌」ではオーケストラが16型に拡大し、2人の歌手は当然オーケストラの前に座す。第1曲はテノール泣かせの分厚いオーケストラで知られるが、やはり今回の実演もバランス的に厳しいものがある。マーラーがもう少し長生きしていたら、この歪なバランスはきっと改訂したことだろうが、望むべくもない。インキネンは初振りだそうだが、何の迷いもない確信に満ちた指揮で豪快にオーケストラを引っ張る。ヴァーグナー作品で才覚を発揮するマエストロならではの、掴みの大きな「大地の歌」だ。(ティーレマンがこの曲を振ったら近いような気がする)特に第6曲「告別」でのギリギリまで管弦楽を濃密にタメて開放するような作りの巧さは、彼の巨匠ぶりをはっきり印象付けた。

男声2人の独唱は、日本人歌手としては十分健闘したと思うが正直食い足りない。テノールの西村さんはしなやかに伸びる美声の持ち主だが、ドイツ語が明快に聴こえず歯がゆい思い。その点バリトンの河野さんは「告別」を録音しているだけあり、貫禄の名唱だった。ただ2、4曲は消化不良だったのか、オーケストラとぼ呼吸の乱れでインキネンが彼をよく見て立て直す場面もあった。

最後になったが、日フィルはますます好調のようだ。オーケストラの厚みと色彩感はラザレフが振った時の9割程度まで上がり、他の在京オケと比べても生き生きとした表情が素晴らしい。日橋さんが抜けた後の課題だったホルンもこの日は朗々と鳴り、安定していた。インキネンを次期シェフに選んだ日フィルの慧眼に改めて拍手を送りたい。
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2015/11/6
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第293回定期演奏会
@東京オペラシティ・コンサートホール

ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第3番「田園交響曲」

ソプラノ:半田美和子
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
コンサートマスター:戸澤哲夫
指揮:藤岡幸夫

昨年のヴォーン・ウィリアムズ5番が渋くも味わい深かった藤岡さん×シティ・フィルのヴォーン・ウィリアムズ、続編は「田園」×「田園」というシャレを感じさせる組み合わせ―と思っていたらもっと深かった。
予定にはなかったようだが、「少し喋った方がいいかなと思って」とのことで藤岡さんによるプレ・コンサート・トーク。ごく短いもので、ざっくばらんなお話。

前半のベートーヴェン「田園」はオーソドックスなスタイル、第1楽章のヴァイオリン2群の掛け合いをはじめ聴かせどころを押さえた演奏だった。シティ・フィルの弦は落ち着きある味わいで、その上を管楽器群がセンスよく彩る。ホルンは若干不調だったようだが、木管群は若手奏者を中心に充実していた。もっと詰める要素はあったと思うが、演奏会の前プロとしてはまずまずの演奏。

後半のヴォーン・ウィリアムズ「田園交響曲」、メインのこちらは流石に藤岡さんの思い入れが十分伝わる印象深い演奏となった。独特の美しい和声が冒頭から響き、劇的な変化はないものの魅了される。第2楽章で現れるナチュラル・トランペット、ナチュラル・ホルンはいずれも現代楽器で代用されていたようだが、特にトランペットは軍楽隊のラッパを想起させるものとして十分立派な演奏。途中いかにも英国風な行進曲が挿入される第3楽章は重々しい主部に独特の魅力があり、かなり好み。東洋風の旋律も見え隠れする。第4楽章は冒頭と終結部にソプラノのヴォーカリーズが入り、独唱の半田さんは3階上手バルコニーからつつましくもよく響く美声で歌う。2回目の登場ではさらに音量が落とされたようだが、あれはドアの外から演奏していたのかしらん?この楽章はそれまでの楽章に比して感情的な弦が目立ち、弦5部が平伏して祈るような旋律は胸に迫る。

藤岡さんも触れられていたが、ベートーヴェン、ヴォーン・ウィリアムズともに田園光景の描写をしたわけではなかった。ベートーヴェンは田園における人々の心象風景を、ヴォーン・ウィリアムズは田園を舞台に、第1次大戦における傷ついた兵士たちへの哀歌を書いたのである。時代を違える2つの「田園」を通して、作曲家が体験した時代の風景がありありと立ち上がってくるのは、実に新鮮な体験であった。
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2015/11/4
NHK音楽祭2015 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
@NHKホール

スメタナ:連作交響詩「我が祖国」
~アンコール~
ドヴォルジャーク:スラヴ舞曲第9番


管弦楽:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
コンサートマスター:イルジー・ヴォディチカ
指揮:イルジー・ビエロフラーヴェク

プレトークで奥田先生も仰っていたが、チェコ・フィルで「我が祖国」を聴くことそれ自体が無形文化財に接するようなことだ。しかもそれが、円熟を極めた名匠ビエロフラーヴェクの指揮ならば役者は揃ったというもの。

思えば、このオーケストラは決して平坦な道のりを歩んできたわけではなかった。ビロード革命以後、初の外国人シェフとしてアルブレヒトを迎え、その後もアシュケナージらを迎えているが、チェコ音楽界の至宝とも言えるオーケストラを率いる立場は文化面のみならず政治的にも複雑で、円満な音楽活動が難しかった組み合わせもあった。
日本公演は必ずしも時のシェフが指揮した訳ではなく、デュトワ、ブロムシュテットら我が国で人気の指揮者がしばしば率いた。2009年から2012年までの3年という短期間だが、インバルも首席指揮者を務めていた。この組み合わせでの来日公演は実現しなかったが、2009年の秋にはインバルは都響と、ブロムシュテットはチェコ・フィルとそれぞれブルックナーを演奏するという少々面白いことが起きていたのをよく覚えている。結局インバルも政治的理由による事務局との対立から退任した。(近年も客演していて、オケとの関係自体は良好なようだが)
そこへ来て今回のビエロフラーヴェクが就任したのだが、彼は首席の座に「返り咲き」したのである。ビロード革命後すぐのシェフとして彼は任命されたが、それは2年間という短期政権に終わった。その後国外での地道な活躍、国内での教育者としての貢献を経て満を持して返り咲いたビエロフラーヴェク。いまや巨匠の風格を漂わせる彼とチェコ・フィルの「我が祖国」とはいかなるものか。

まず編成と独特の楽器配置に目がいく。ウィーン・フィル、サンクトペテルブルク・フィルといった独特のローカル色を固持するオケは配置に拘りを持っているが、チェコ・フィルもそういうオケだったのだ、と思い出す。
16型の弦楽器はコントラバスが舞台後方にずらりと一列に並ぶ。木管楽器は一部を除き倍管、打楽器はすべて舞台上手に寄せられていた。家に帰ってこのコンビが近年演奏した「プラハの春」の映像を観てみたら、ほぼ同じで納得。ただ一点違うのは、なんとプラハでの演奏はハープが6台という贅沢ぶりだったこと。ヴァーグナーの楽劇と同じ規模である。

演奏は極上だった。郷を同じくする指揮者とオーケストラは誇り高く全6曲を奏でたのだが、何より嬉しかったのは「チェコ・フィルの我が祖国」という名演が保証されたブランドに留まるのではなく、新たな表現の余地を感じさせてくれたことだ。たとえば、第5曲「ターボル」では連打されるティンパニのD音のみを2人の奏者に叩かせて強調。(ティンパニが2対叩かれたのはここだけだった)他にも、倍管というリッチな布陣を活かして繊細な音量調節が行われていたし、弦楽器のフレージングにも独特の箇所がいくつかあった。また第3曲「シャールカ」のソロ・クラリネットも最高だったし、曲中何度も叩かれるシンバルの余韻も打楽器とは思えぬほど柔らかな余韻を伴ったものだった。(2種のシンバルが用意される拘り様だった)
自信に溢れるオーケストラを見事に束ねたビエロフラーヴェクの指揮は堂々たるもので、 テンポの動かし方などは弟子にあたるフルシャと共通する機敏さを感じさせた。決して主張の強いアプローチではないが、どこまでが指揮者の設計で、どこからがオーケストラの語法なのか、皆目見当がつかない。これほどまで隅々まで同化し「我が祖国」を聴かせてくれるのは、世界でもこのコンビだけに違いない。

終演後はまさかのアンコールで、スラヴ舞曲の第9番。 「我が祖国」の余韻を胸にホールを後にしたい気持ちも無くはなかったが、純粋に楽しんだ。チェコ・フィルの女性メンバーは白を基調とし、所々黒色もあしらったドレスに身を包んでいた。落ち着いたモノ・トーンで統一されたこの名門楽団は、いま名匠との蜜月にあることを確信した。DECCAレーベルへの更なる録音も期待したい。
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2015/11/2
東京都交響楽団 第797回定期演奏会Bシリーズ
@サントリーホール 大ホール

ラヴェル:スペイン狂詩曲
プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番
細川俊夫:嵐のあとに―2人のソプラノとオーケストラのための
(都響創立50周年記念委嘱作品・世界初演)
ドビュッシー:交響詩「海」

ヴァイオリン:ヴァディム・レーピン
ソプラノ:イルゼ・エーレンス、スザンヌ・エルマーク
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター(ラヴェル、ドビュッシー):四方恭子
コンサートマスター(プロコフィエフ、細川):山本友重
指揮:大野和士

いよいよ都響のヨーロッパ・ツアーが目前に迫った。今回のツアーは、ベルリンはフィルハーモニー、アムステルダムはコンセルトヘボウなど、ヨーロッパの名ホールを巡る大規模な楽旅だ。歴代のシェフの薫陶に加え、2014年までのインバル時代にアンサンブル力をぐんと向上させた楽団の威信をかけた”殴りこみ”とでも言おうか。それを率いるのは当然、今年度から音楽監督に着任した大野和士である。

ここ最近、カーテンコールを含めて全ての行程が2時間で収まるプログラムを組むことが多い都響。今回ばかりはヨーロッパ仕様ということだろうか、終演が21:30近くというヴォリュームの定期となった。(ツアー中では、ルクセンブルク公演にて今回とまったく同じ演目が組まれる)
開演前に大野さんと委嘱作品を手がけた細川さんによる対談形式のプレトークが行われた。4月のプレトークでは突然ステージ上を歩き出したり、大きな身振りで自分の世界に没頭したりと”自由な”大野さんだったが、今回は細川さんの聞き手に回ったためかスムーズな進行で委嘱作品の聴き所を解きほぐす。プログラムに記載されていた事項とも重なる部分があったので詳細は記述しないが、2011年の震災が念頭にあり、その「嵐」の中から差す一抹の希望が描かれているとのこと。
プログラム的な連関も考慮されている。冒頭のラヴェルの第2曲「マラゲーニャ」はドビュッシーの同じく第2曲「波の戯れ」からの影響があり、ラヴェルとプロコフィエフは「スペイン」という共通項でくくることが出来る。(プロコフィエフ作品の初演地はマドリッドだ)また、細川作品とドビュッシーは当然「海」というテーマ性で共通。こうして全ての演目が有機的に結び付けられるあたり、流石は才人大野さんと思う次第だ。

さて、肝心の演奏について。
冒頭のラヴェルは、さしもの大野さんと言えどもヨーロッパ・ツアーの演目で少々生硬なのかな?という部分がちらほら。ただ弦楽器の弱音は密やかな空気感をふわりと立ち昇らせる。曲の進行に従い硬さは取れてきて、ダイナミックな強奏と沸き立つ気分を抑えるような弱奏の対比が自然に成される。都響の金管・打楽器陣はいつになく鳴らしていたが、広大な音場を持つフィルハーモニーだと丁度良く響くだろうか?曲最後に弦が情感豊かにうねってクライマックスを迎えるが、ここでのヴァイオリン群の音色は胸を締め付けるような濃さで出色。

続くレーピンをソロに迎えたプロコフィエフ、出来にムラがあると言われて久しいレーピンだが―この日はボチボチといったところだろうか。大野さんとは9月にバルセロナ響と同曲を共演済で、両者のテンポ感ほかの咀嚼は問題ない。大野さん指揮のオケはぐっと編成を減らし、この作曲家独特の人を食ったような表情をやや端正に示していく。対するレーピンは、下品な言葉で言えば「オレオレ」なヴィルトゥオーゾ・スタイルで、美音ながらアク強めに全曲を弾き進める。悪魔的なプロコフィエフゆえにこのスタイルは奇妙な一致を生み、結果的になかなか高水準の演奏となったように思う。だが、このスタイルでロマンティックな歌を紡ぐ作品をやられてしまうと、ちょっと辟易するかもしれない。

休憩を挟んでの細川作品、プロコフィエフで人数を減らしたオーケストラは再び拡大、多数の打楽器を含めた大編成となる。無音の中、舞台後方の打楽器群が演奏を始める。といっても、冒頭では打楽器の表面を擦る音が静かに響くのみだ。やがてフルート群(バス・フルート、ピッコロ含む)が息のみを吹き込んで風が起こる様子を表現する。風はオーケストラ全体に波及し、ついにはトゥッティの刺激的な音響により嵐が沸き起こる。この一連の流れはいわゆる「自然描写」という言葉から連想される美しく和やかな情景とは正反対といってよく、嫌でもあの怖ろしい震災と津波を聴き手の脳裏に刻印する。そしてこの嵐の激情が収まらぬ中、ソプラノ2人がオーケストラの中から浮かび上がるようにGを最強音で歌い始める。細川さんによればこの2人はある一人の巫女の「陰」と「陽」であり、旋律的にも同じ所から始まって段々と分岐していく。彼女らが歌うのはヘッセの「嵐のあとの花」で、嵐に打ちのめされた花が少しずつ静かな世界を取り戻す過程が描かれているのだが、この静かな希望への道程は決してなだらかなものではない。彼女らの歌の間にも刺激的な管弦楽が邪魔に入り、穏やかな音楽の流れを切り捨てるような厳しさがある。最終的に音楽は静謐な方向へ向かっていき、弦楽の最弱音で消え入るが、その結果は聴き手に委ねられて明らかではない。
自分は細川作品がとても好きなのだが、今回の委嘱作品にもまた大変感じ入った。彼の作品で例示するならば「循環する海」の豊穣なスケール感、「ヒロシマ・声なき声」の差し迫るような恐怖を併せ持つ音楽と言おうか。細川さんの筆致は洗練され円熟したものだが、中でも邦楽器の効果的な用法は見事だった。単に日本的な要素を入れるのではなく、締太鼓や風鈴、鈴といった独特の音響がアンティーク・シンバルなどに溶け込んで奥行きをもたらす。これはきっと、ヨーロッパでも高い評価を得るのではないだろうか。

細川作品に続く「海」はドビュッシーによるもの。正直、3曲続けて聴いてかなり精神的には充足した気持ちになっていたのだが―更にこのドビュッシーも素晴らしかった。
大野和士と都響の組み合わせは、シーズン冒頭のB定期では最高級に感じられ、A定期でやや不安になり、一連の夏公演では素晴らしさを再認識してきた。そして、今回のヨーロッパ公演プログラムでは―オーケストラと指揮者の組み合わせが芸術的に更なる高次元へ羽ばたく可能性はじゅうぶんにあるものの―日本を代表する指揮者とアンサンブルとして、ヨーロッパ各地で演奏するのに何の不満もない水準に達していたと思う。常に豊かな響きを失わない都響のソロ群の美しさを自然に束ね、ここぞという場面で豊かに放つ大野さんの指揮は実に見事だ。フランスのオーケストラとの共演で聴かせた余裕のあるふわりとした響きというよりは、アメリカオケのような豪放さで奏でられるドビュッシーという風合いだったのは少し個人的な好みとは異なるが、この演奏はなかなかすぐに達成できる水準でないことは確か。

通例とは異なる長いプログラムだが、全体の演奏に少しの緩みも見られなかったのも都響の集中力の高さを物語っている。大野さん・楽団の皆さん共々、くれぐれも体調やトラブルに気をつけて実りあるツアーとしてほしいと切に願いたい。
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