たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

January 2016

2016/1/30
東京都交響楽団 都響スペシャル
@東京芸術劇場

ベートーヴェン:序曲「コリオラン」
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番
~ソリスト・アンコール~
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第6番より 第3楽章

ベートーヴェン:交響曲第7番

ピアノ:イノン・バルナタン
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:アラン・ギルバート

定期では"Journey"をテーマとした名プログラムだったが、こちらのスペシャルでは対照的にごくシンプルなベートーヴェン・プログラム。(こういう王道こそ難しいのだが・・・)

オケにほど近い席で聴く「コリオラン」序曲冒頭から分厚い響き(オケは14型)だが、音楽の移行において鋭敏な感覚が楽員と指揮者の間で共有されている。ある時は豪快に飛び掛るよう、ある時は自発的な合奏を仕向けるような指揮に対し、きちんとオケの側から返球があるのだ。弦5部が互いに呼応してフレージングを作っていく姿勢は、この日最後まで見事に保たれていた。

ピアノ協奏曲第3番でソロを弾いたバルナタンは2016/17シーズン、ニューヨーク・フィルのArtist-in-associationを務める。彼とアランの呼吸はぴったりだ。王道を往きながら陰影の濃いピアノにアランは繊細に追随、フレーズの受け渡しも実に雄弁かつユーモアがある。協奏曲でもアランの音楽への姿勢は同じで、全ての要素が即興性も含め楽しげに絡み合っていく。オケは序曲に引き続きハ短調の劇性を聴かせ、きわめて荘厳な響きを表出。バルナタンのアンコールも素晴らしかったし、骨太な協奏曲を聴けて大変に満足した。

後半のベートーヴェン7番、これは都響史に残るのではないかという凄絶な名演となった。第一音からオケの気合がまるで先日の定期とは違うし、音楽そのものも驚きの連続。ピリオド楽器を使うでも、両翼配置をとるでもない、きわめて一般的なモダンオケによるベートーヴェンなのだが、これほどまで掘り下げる可能性がまだ残っていたとは―高性能オケの限界に挑むような気迫にはこちらがたじろいでしまう。聴き慣れたはずのフレーズが全て斬新に聴こえ、即興的なテンポ変化にオケが食らいつく。第2楽章もどっしりとした低弦を主体に、息の長い歌が紡がれた。そして終楽章ではリミッター解除。コントラバスのペザンテ以降、弦4部が競うように奏して駆け上がるクライマックスではアランが阿修羅のごとく各セクションに振り分け、最後の一音ではティンパニが皮を破る猛打!あまりの充実に言葉もない。余程満足したのか、アランも終演後は涙ぐんでいた。

定期では繊細な作り込みの反面で推進力の減退が惜しく感じられたが、今日のベートーヴェンは何たる素晴らしさだろう・・・初共演の興奮に勝るとも劣らない。合奏優先の都響がその仮面をかなぐり捨て、鬼気迫る音楽への献身を聴かせた。邪推ではあるが、スペシャルはリハーサルが必ずしも潤沢に取れなかったのではないか?それ故、かえって本番ではピンと張り詰めた集中が生まれて歴史的快演となったのでは。音楽は分からない。
アラン・ギルバートがニューヨーク・フィルの音楽監督だから凄いのではない、アラン・ギルバートという指揮者そのものが超一流の音楽性の持ち主なのだ。今すぐとは言わないが、次期音楽監督に希望したい! 

2016/1/27
新日本フィルハーモニー交響楽団 第553回定期演奏会
@サントリーホール

モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
マーラー:交響曲第5番

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:西江辰郎
指揮:トーマス・ダウスゴー 

新日本フィル、1月最後の定期はダウスゴーの独墺プログラム。彼はスウェーデン室内管弦楽団と果汁絞りたてのようなシューベルト、シューマンの作品集を出しているが(ベートーヴェンもあったはずだ)、日本で披露するのは今回が初ではなかろうか。

前半のモーツァルト「ハフナー交響曲」、コントラバス下手(しもて)、軽い打音のバロックティンパニ、ヴァイオリンの対向配置などは近年の標準装備として、その上で楽員の自主性を引き出す指揮が絶妙でアイディアに富む。高弦は羽毛のように軽やか、木管がその上に愉悦を奏でる。モーツァルト260回目の誕生日に響いた極上の演奏だった。

後半マーラー「交響曲第5番」、前半から推するにきっと良いだろうと思っていたが、期待を遥かに超えてきた。個人的には、ここ数年の在京オケ演奏としてはベストに入る超名演だった。冒頭のトランペットから決まったし、吉永さんのホルンが不調を脱した?と思わせる絶好調で、難所の第3楽章も朗々たる吹奏で魅了。とてもハーディングのブルックナー7番で吹いていたのと同じ方とは思えないのだが・・・。ホルン・セクション全体も攻め気味で素晴らしい。指揮者として扱いの難しい第2楽章・第3楽章のテクスチャの見通しもよく、14型オケはかなり鳴らしても鈍重にならず活き活きと闊達だ。それにしても第2楽章結尾のティンパニの強打には驚いたが。
ダウスゴーは固定的な解釈をオーケストラに叩き込むというより、大きな体躯を活かしたバネのある指揮により即興的に表情を作っていくという感じ。だが、一瞬たりとも無作為に鳴る瞬間はない。なにより素晴らしく、また快かったのが、新日本フィルが実にポジティヴにダウスゴーに応じていること。ステージ全体が試行錯誤の気概に満ちていたのは本当に好かった。

上岡さんも楽しみだが、ここまでオーケストラを奮い立たせ、自信を与えてくれる指揮者も稀有だろう。若干アンサンブルがラフになるのは要改善として、何としても新日本フィルとダウスゴーの縁は繋いで欲しいものだ。 

2016/1/26
東京都交響楽団 第801回定期演奏会Bシリーズ
@サントリーホール

武満徹:トゥイル・バイ・トワイライト―モートン・フェルドマンの追憶に―
シベリウス:交響詩「エン・サガ(伝説)」

ヴァーグナー(ラインスドルフ/ギルバート編):指環の旅~楽劇「ニーベルングの指環」より

管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:四方恭子
指揮:アラン・ギルバート

アラン・ギルバートが初めて都響を振った2011年7月の公演、これは数々の都響の名演の中でもとりわけ上位に位置づけられる極上の演奏会であった。ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」「交響曲第1番」、その間にベルク「ヴァイオリン協奏曲」という薫り高いプログラム。しかもベルクの独奏はフランク・ペーター・ツィンマーマンという豪華さであった。その協奏曲の素晴らしさ(第2楽章結尾のソロとオーケストラの極限の対話!)もさることながら、ブラームス1番はドイツの名門オケも顔負けの重心低い響きで、ギルバートの実力に目を剥いた。あまりによかったので2日目の公演も買い足したほどだった。前置きが長くなったが、それだけに今回のギルバート帰還には期待するところが非常に大きい。

武満作品はAs-Bのシンプルな音型がまさに織物(トゥイル)状に発展してゆき、と打楽器の特殊奏法と濁りない弦が音場を満たす。その芳醇な響きはいかにも晩年スタイルの武満音楽で、昨年ナッセン指揮で聴いた「精霊の庭」を想起する。アンティーク・シンバルの使用など、フランス音楽のような色彩にも事欠かない。世界観で言えば、この作品のタイトルにも含まれているモートン・フェルドマン作品との繫がりも感じた。点と点が合わさり線となる音楽、これはまさに昨年ノット/東響で聴いた「ヴィオラ・イン・マイ・ライフⅡ」だ。
シベリウス「エン・サガ」では騎馬民族的なリズム動機が一貫、ミニマルの先駆のような書法を堪能した。やはり都響がほぼ一年前に取り上げた「夜の騎行と日の出」でも同じく単一動機の反復があった。シベリウスは独自の往き方を貫いた結果、20世紀音楽へ自然に合流したのではないかと思わせられる。管楽器のソロや咆哮の土台となる弦はdiv.含め精密だが、張り詰めた緊張感は希薄、良くも悪くも都響らしい。

ヴァーグナー「指環」抜粋、流石に編成は大きく拡大し、バス・トランペットなども見られる。このラインスドルフ編曲、Es(音名としての意味だけでなく、"それ"の意味含め)に始まる「ラインの黄金」の欠如は大変残念だが、総じて自然な移行を試みた編纂は嫌いではない。「黄昏」の比重がやや大きいか。ギルバートは弦楽器出身らしく表情豊かにオーケストラを導いたが、管打楽器の応答は一部を除き語彙不足。「ラインの旅」の角笛ソロの不発を含め、Hrセクション全体のまとまり無さがもったいなかった。ギルバートが前回とは異なりタクトを持たなくなったことは原因ではなかろう。オーケストラのヴァーグナー作品への不慣れが全体的に聴かれた演奏だった。それでも「黄昏」の葬送行進曲あたり、オーケストラの分厚いトゥッティはそれなりに迫力も大見得も感じられた。だがこの組み合わせなら更なる高みを求めたかったのだ。

インバル時代を経て威勢よく鳴るようになった都響だが、一方で昨年頃から合奏の雑味が気になるようになった。これは音楽監督の責任でもあるし、方向性の模索におけるオーケストラの迷いもあるのだろう。今月のAB定期は特にそれを強く感じる結果となった。「巧いけど・・・」という枕詞はもう付けたくないのだが、果たして今後どうなるだろうか。

2016/1/23
読売日本交響楽団
スクロヴァチェフスキ指揮 特別演奏会 《究極のブルックナー》 2日目
@東京オペラシティ・コンサートホール

ブルックナー:交響曲第8番

管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:長原幸太
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ

仰々しいタイトルが銘打たれた演奏会。ただ、今季の定期に名前がなかったスクロヴァチェフスキが特別公演枠で読響に来演、しかも常任指揮者退任時に聴かせたブルックナー8番を振るとあらば、ファンはまさに「究極の」という心持ちで臨んだのだろう。事実、会場はただ事でなく張り詰めた雰囲気。

第1楽章冒頭の低弦主題から引き締まった硬派なサウンドが響き、全体の造形を予告した。ああ、スクロヴァチェフスキは今も変わっていないのだなと思わせられる。その後も強奏は全管弦楽の絶叫で、陶酔とは無縁の極めて刺激的なアプローチ。唯一第3楽章の長大なアダージョは以前より俯瞰的な味わいが強まっただろうか。読響の弦の充実もあって、この楽章では思わず天を仰ぎ見ずにはいられないような絶美の瞬間が何度も訪れた。しかし、第4楽章で一気に現実に引き戻される。3つの主題が有機的に絡まりフィナーレを形成していく訳だが、スクロヴァチェフスキはこれまでの楽章以上に裏に隠れた木管の走句などを執拗に抽出してブロック的に聴かせる。また、コーダで弦楽器を一旦ふっと弱めて金管のマーチを浮き立たせ、徐々にトゥッティの力を強めていく流儀も健在だ。(レーグナーも同じことをやっている)幕切れでは第1楽章と同じく、16分音符を雪崩れるように奏して終わる。

細部の凝りや微妙なテンポ設定の変化はスクロヴァチェフスキのあくなき探求によるものだろうが、彼は基本的に自らのやり方を大きく変えない指揮者だ。作曲家でもある彼の流儀は、ハレ管と名盤を残すショスタコーヴィチなど近現代音楽では見事な手腕を発揮する。だがブルックナーではどうだろう—耳を刺すような刺激的なトゥッティや、音楽が本来持つ深い呼吸や濃密さを削ぎかねないテンポ設定、フレーズの局部的な強調に、私は賛同しかねる。(2010年の退任公演のCDを聴いた6年前のガキンチョは案外感動しているようなので、自分もいい加減なものだが)

読響も御歳92歳の老匠に対して精一杯の熱演で応えていたが、必ずしも音楽的に最上の成果とはいえなかった。冒頭の第一音からホルンは不調であったし、ヴァーグナーテューバも無神経に大きすぎる場面が多かった。またトゥッティの刺さるようなサウンドは指揮者の特徴とはいえ、加齢により調整力が低下した指揮者を援ける意味でもオケ自身によるバランスの調整がなされるべきだったのではないか。エモーショナルな熱演には違いないが、知情意の情に傾きすぎだ。

終演後の客席は予想通りの大熱狂、疲れ果てた様子のスクロヴァチェフスキは何度も呼び戻され、コンサートマスターを伴って答礼していた。
こう言ってしまうと元も子もないが、果たしてあの熱狂のうち何割が彼の音楽に対して向けられていたのだろう。演奏されたブルックナーの音楽に対してではなく、「92歳の指揮者が椅子も使わず80分の大曲を振り通した」という事実(これ自体はまったく驚くべきことで、感嘆するのも当然だ!)に対して向けられた喝采が大半だったのではないか。だから悪い、というつもりは毛頭ない。最初からそういう性格の演奏会だったというだけのことで、最後まで自分は冷め切っていた。(ただ、渾身の力で振り終えたマエストロが楽譜通りに全休符の沈黙を保っているにも係らず、罵声のようなフライングブラヴォーが投げ込まれたのは流石に気の毒だった。ああいう輩は、音楽を聴いていない)

2016/1/22
新日本フィルハーモニー交響楽団 第552回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール

シベリウス:組曲「レンミンカイネン」
ニールセン:交響曲第5番

イングリッシュホルン:森明子
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:崔文洙
指揮:トーマス・ダウスゴー


新日本フィルの1月定期はハーディング、ダウスゴーで濃いプログラム。ダウスゴーは今回とサントリーの2プログラムなので、NJPはひと月に3回も定期演奏会をやることになっている。オーケストラは大変だろう。

シベリウス「レンミンカイネン」は冒頭から北欧の静けさ漂う音色。作曲家の隠れた8つ目の交響曲とでも言うべき傑作を雄弁に聴かせてくれた。以前聴いたインキネン/日フィルのような懐深い響きというよりは、全体的に筋肉質な構築。イングリッシュ・ホルンが歌う「トゥオネラ」も伸びやかだが停滞しない。ソロの森さんお見事!輝かしい「帰郷」ではブラスの縦がバシッと合う気持ちよさ。勇壮な締め括りでは一度トゥッティで叩きつけてからsubitoで落とし、すぐに膨らみを取り戻す手法が見事に決まった。弦のまとまり、オケ全体のピッチはやや気になったが好演。

休憩後はニールセン「第5番」。巨大な肯定へと力強く進む第4番「不滅」とは対照的に、作曲家の苦悩を追体験する思索の旅のような作品だ。第1楽章で強弱のニュアンス、演奏位置を変えて頻繁に現れるスネアドラムの主張からもそれを窺い知ることが出来る。(今回のスネアはなかなか見事だった)
ダウスゴーは殊更深刻ぶることはなく、ダイナミックに音楽を波打たせた。どちらかといえば、前回新日本フィルに客演した時に振ったという「不滅」向きのアプローチだが、第2楽章では目が覚めるような迫力をもたらしていた。大きくバネのように体を使い、雄弁に率いる名船頭はオーケストラをも奮い立たせた。軍楽隊の乱入の遠近感、薄明から朗々とした語りまで使い分けるヴィオラの存在感など、曲中要素の有機的連関も存分に感じられた。初日ゆえか合奏精度は前半に引き続き問題があったが、ダウスゴーの音楽はやはり格別である。

余談になるが、前半の弱奏箇所で一箇所から忙しなく咳き込む音が聞こえてきて感興を削がれてしまった。生理現象には基本的に拘泥しないつもりだが、今回は悪質なので別だ。全くハンカチなどで音を減衰させる気もなく、歌舞伎の見得のような異様な咳をあたりに振りまいていた。文字化すると「えぇっへん!えぇっへん!」という感じ。

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