たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

January 2016

2016/1/30
東京都交響楽団 都響スペシャル
@東京芸術劇場

ベートーヴェン:序曲「コリオラン」
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番
~ソリスト・アンコール~
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第6番より 第3楽章

ベートーヴェン:交響曲第7番

ピアノ:イノン・バルナタン
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:アラン・ギルバート

定期では"Journey"をテーマとした名プログラムだったが、こちらのスペシャルでは対照的にごくシンプルなベートーヴェン・プログラム。(こういう王道こそ難しいのだが・・・)

オケにほど近い席で聴く「コリオラン」序曲冒頭から分厚い響き(オケは14型)だが、音楽の移行において鋭敏な感覚が楽員と指揮者の間で共有されている。ある時は豪快に飛び掛るよう、ある時は自発的な合奏を仕向けるような指揮に対し、きちんとオケの側から返球があるのだ。弦5部が互いに呼応してフレージングを作っていく姿勢は、この日最後まで見事に保たれていた。

ピアノ協奏曲第3番でソロを弾いたバルナタンは2016/17シーズン、ニューヨーク・フィルのArtist-in-associationを務める。彼とアランの呼吸はぴったりだ。王道を往きながら陰影の濃いピアノにアランは繊細に追随、フレーズの受け渡しも実に雄弁かつユーモアがある。協奏曲でもアランの音楽への姿勢は同じで、全ての要素が即興性も含め楽しげに絡み合っていく。オケは序曲に引き続きハ短調の劇性を聴かせ、きわめて荘厳な響きを表出。バルナタンのアンコールも素晴らしかったし、骨太な協奏曲を聴けて大変に満足した。

後半のベートーヴェン7番、これは都響史に残るのではないかという凄絶な名演となった。第一音からオケの気合がまるで先日の定期とは違うし、音楽そのものも驚きの連続。ピリオド楽器を使うでも、両翼配置をとるでもない、きわめて一般的なモダンオケによるベートーヴェンなのだが、これほどまで掘り下げる可能性がまだ残っていたとは―高性能オケの限界に挑むような気迫にはこちらがたじろいでしまう。聴き慣れたはずのフレーズが全て斬新に聴こえ、即興的なテンポ変化にオケが食らいつく。第2楽章もどっしりとした低弦を主体に、息の長い歌が紡がれた。そして終楽章ではリミッター解除。コントラバスのペザンテ以降、弦4部が競うように奏して駆け上がるクライマックスではアランが阿修羅のごとく各セクションに振り分け、最後の一音ではティンパニが皮を破る猛打!あまりの充実に言葉もない。余程満足したのか、アランも終演後は涙ぐんでいた。

定期では繊細な作り込みの反面で推進力の減退が惜しく感じられたが、今日のベートーヴェンは何たる素晴らしさだろう・・・初共演の興奮に勝るとも劣らない。合奏優先の都響がその仮面をかなぐり捨て、鬼気迫る音楽への献身を聴かせた。邪推ではあるが、スペシャルはリハーサルが必ずしも潤沢に取れなかったのではないか?それ故、かえって本番ではピンと張り詰めた集中が生まれて歴史的快演となったのでは。音楽は分からない。
アラン・ギルバートがニューヨーク・フィルの音楽監督だから凄いのではない、アラン・ギルバートという指揮者そのものが超一流の音楽性の持ち主なのだ。今すぐとは言わないが、次期音楽監督に希望したい! 

2016/1/27
新日本フィルハーモニー交響楽団 第553回定期演奏会
@サントリーホール

モーツァルト:交響曲第35番「ハフナー」
マーラー:交響曲第5番

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:西江辰郎
指揮:トーマス・ダウスゴー 

新日本フィル、1月最後の定期はダウスゴーの独墺プログラム。彼はスウェーデン室内管弦楽団と果汁絞りたてのようなシューベルト、シューマンの作品集を出しているが(ベートーヴェンもあったはずだ)、日本で披露するのは今回が初ではなかろうか。

前半のモーツァルト「ハフナー交響曲」、コントラバス下手(しもて)、軽い打音のバロックティンパニ、ヴァイオリンの対向配置などは近年の標準装備として、その上で楽員の自主性を引き出す指揮が絶妙でアイディアに富む。高弦は羽毛のように軽やか、木管がその上に愉悦を奏でる。モーツァルト260回目の誕生日に響いた極上の演奏だった。

後半マーラー「交響曲第5番」、前半から推するにきっと良いだろうと思っていたが、期待を遥かに超えてきた。個人的には、ここ数年の在京オケ演奏としてはベストに入る超名演だった。冒頭のトランペットから決まったし、吉永さんのホルンが不調を脱した?と思わせる絶好調で、難所の第3楽章も朗々たる吹奏で魅了。とてもハーディングのブルックナー7番で吹いていたのと同じ方とは思えないのだが・・・。ホルン・セクション全体も攻め気味で素晴らしい。指揮者として扱いの難しい第2楽章・第3楽章のテクスチャの見通しもよく、14型オケはかなり鳴らしても鈍重にならず活き活きと闊達だ。それにしても第2楽章結尾のティンパニの強打には驚いたが。
ダウスゴーは固定的な解釈をオーケストラに叩き込むというより、大きな体躯を活かしたバネのある指揮により即興的に表情を作っていくという感じ。だが、一瞬たりとも無作為に鳴る瞬間はない。なにより素晴らしく、また快かったのが、新日本フィルが実にポジティヴにダウスゴーに応じていること。ステージ全体が試行錯誤の気概に満ちていたのは本当に好かった。

上岡さんも楽しみだが、ここまでオーケストラを奮い立たせ、自信を与えてくれる指揮者も稀有だろう。若干アンサンブルがラフになるのは要改善として、何としても新日本フィルとダウスゴーの縁は繋いで欲しいものだ。 

2016/1/26
東京都交響楽団 第801回定期演奏会Bシリーズ
@サントリーホール

武満徹:トゥイル・バイ・トワイライト―モートン・フェルドマンの追憶に―
シベリウス:交響詩「エン・サガ(伝説)」

ヴァーグナー(ラインスドルフ/ギルバート編):指環の旅~楽劇「ニーベルングの指環」より

管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:四方恭子
指揮:アラン・ギルバート

アラン・ギルバートが初めて都響を振った2011年7月の公演、これは数々の都響の名演の中でもとりわけ上位に位置づけられる極上の演奏会であった。ブラームス「ハイドンの主題による変奏曲」「交響曲第1番」、その間にベルク「ヴァイオリン協奏曲」という薫り高いプログラム。しかもベルクの独奏はフランク・ペーター・ツィンマーマンという豪華さであった。その協奏曲の素晴らしさ(第2楽章結尾のソロとオーケストラの極限の対話!)もさることながら、ブラームス1番はドイツの名門オケも顔負けの重心低い響きで、ギルバートの実力に目を剥いた。あまりによかったので2日目の公演も買い足したほどだった。前置きが長くなったが、それだけに今回のギルバート帰還には期待するところが非常に大きい。

武満作品はAs-Bのシンプルな音型がまさに織物(トゥイル)状に発展してゆき、と打楽器の特殊奏法と濁りない弦が音場を満たす。その芳醇な響きはいかにも晩年スタイルの武満音楽で、昨年ナッセン指揮で聴いた「精霊の庭」を想起する。アンティーク・シンバルの使用など、フランス音楽のような色彩にも事欠かない。世界観で言えば、この作品のタイトルにも含まれているモートン・フェルドマン作品との繫がりも感じた。点と点が合わさり線となる音楽、これはまさに昨年ノット/東響で聴いた「ヴィオラ・イン・マイ・ライフⅡ」だ。
シベリウス「エン・サガ」では騎馬民族的なリズム動機が一貫、ミニマルの先駆のような書法を堪能した。やはり都響がほぼ一年前に取り上げた「夜の騎行と日の出」でも同じく単一動機の反復があった。シベリウスは独自の往き方を貫いた結果、20世紀音楽へ自然に合流したのではないかと思わせられる。管楽器のソロや咆哮の土台となる弦はdiv.含め精密だが、張り詰めた緊張感は希薄、良くも悪くも都響らしい。

ヴァーグナー「指環」抜粋、流石に編成は大きく拡大し、バス・トランペットなども見られる。このラインスドルフ編曲、Es(音名としての意味だけでなく、"それ"の意味含め)に始まる「ラインの黄金」の欠如は大変残念だが、総じて自然な移行を試みた編纂は嫌いではない。「黄昏」の比重がやや大きいか。ギルバートは弦楽器出身らしく表情豊かにオーケストラを導いたが、管打楽器の応答は一部を除き語彙不足。「ラインの旅」の角笛ソロの不発を含め、Hrセクション全体のまとまり無さがもったいなかった。ギルバートが前回とは異なりタクトを持たなくなったことは原因ではなかろう。オーケストラのヴァーグナー作品への不慣れが全体的に聴かれた演奏だった。それでも「黄昏」の葬送行進曲あたり、オーケストラの分厚いトゥッティはそれなりに迫力も大見得も感じられた。だがこの組み合わせなら更なる高みを求めたかったのだ。

インバル時代を経て威勢よく鳴るようになった都響だが、一方で昨年頃から合奏の雑味が気になるようになった。これは音楽監督の責任でもあるし、方向性の模索におけるオーケストラの迷いもあるのだろう。今月のAB定期は特にそれを強く感じる結果となった。「巧いけど・・・」という枕詞はもう付けたくないのだが、果たして今後どうなるだろうか。

2016/1/23
読売日本交響楽団
スクロヴァチェフスキ指揮 特別演奏会 《究極のブルックナー》 2日目
@東京オペラシティ・コンサートホール

ブルックナー:交響曲第8番

管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:長原幸太
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ

仰々しいタイトルが銘打たれた演奏会。ただ、今季の定期に名前がなかったスクロヴァチェフスキが特別公演枠で読響に来演、しかも常任指揮者退任時に聴かせたブルックナー8番を振るとあらば、ファンはまさに「究極の」という心持ちで臨んだのだろう。事実、会場はただ事でなく張り詰めた雰囲気。

第1楽章冒頭の低弦主題から引き締まった硬派なサウンドが響き、全体の造形を予告した。ああ、スクロヴァチェフスキは今も変わっていないのだなと思わせられる。その後も強奏は全管弦楽の絶叫で、陶酔とは無縁の極めて刺激的なアプローチ。唯一第3楽章の長大なアダージョは以前より俯瞰的な味わいが強まっただろうか。読響の弦の充実もあって、この楽章では思わず天を仰ぎ見ずにはいられないような絶美の瞬間が何度も訪れた。しかし、第4楽章で一気に現実に引き戻される。3つの主題が有機的に絡まりフィナーレを形成していく訳だが、スクロヴァチェフスキはこれまでの楽章以上に裏に隠れた木管の走句などを執拗に抽出してブロック的に聴かせる。また、コーダで弦楽器を一旦ふっと弱めて金管のマーチを浮き立たせ、徐々にトゥッティの力を強めていく流儀も健在だ。(レーグナーも同じことをやっている)幕切れでは第1楽章と同じく、16分音符を雪崩れるように奏して終わる。

細部の凝りや微妙なテンポ設定の変化はスクロヴァチェフスキのあくなき探求によるものだろうが、彼は基本的に自らのやり方を大きく変えない指揮者だ。作曲家でもある彼の流儀は、ハレ管と名盤を残すショスタコーヴィチなど近現代音楽では見事な手腕を発揮する。だがブルックナーではどうだろう—耳を刺すような刺激的なトゥッティや、音楽が本来持つ深い呼吸や濃密さを削ぎかねないテンポ設定、フレーズの局部的な強調に、私は賛同しかねる。(2010年の退任公演のCDを聴いた6年前のガキンチョは案外感動しているようなので、自分もいい加減なものだが)

読響も御歳92歳の老匠に対して精一杯の熱演で応えていたが、必ずしも音楽的に最上の成果とはいえなかった。冒頭の第一音からホルンは不調であったし、ヴァーグナーテューバも無神経に大きすぎる場面が多かった。またトゥッティの刺さるようなサウンドは指揮者の特徴とはいえ、加齢により調整力が低下した指揮者を援ける意味でもオケ自身によるバランスの調整がなされるべきだったのではないか。エモーショナルな熱演には違いないが、知情意の情に傾きすぎだ。

終演後の客席は予想通りの大熱狂、疲れ果てた様子のスクロヴァチェフスキは何度も呼び戻され、コンサートマスターを伴って答礼していた。
こう言ってしまうと元も子もないが、果たしてあの熱狂のうち何割が彼の音楽に対して向けられていたのだろう。演奏されたブルックナーの音楽に対してではなく、「92歳の指揮者が椅子も使わず80分の大曲を振り通した」という事実(これ自体はまったく驚くべきことで、感嘆するのも当然だ!)に対して向けられた喝采が大半だったのではないか。だから悪い、というつもりは毛頭ない。最初からそういう性格の演奏会だったというだけのことで、最後まで自分は冷め切っていた。(ただ、渾身の力で振り終えたマエストロが楽譜通りに全休符の沈黙を保っているにも係らず、罵声のようなフライングブラヴォーが投げ込まれたのは流石に気の毒だった。ああいう輩は、音楽を聴いていない)

2016/1/22
新日本フィルハーモニー交響楽団 第552回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール

シベリウス:組曲「レンミンカイネン」
ニールセン:交響曲第5番

イングリッシュホルン:森明子
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:崔文洙
指揮:トーマス・ダウスゴー


新日本フィルの1月定期はハーディング、ダウスゴーで濃いプログラム。ダウスゴーは今回とサントリーの2プログラムなので、NJPはひと月に3回も定期演奏会をやることになっている。オーケストラは大変だろう。

シベリウス「レンミンカイネン」は冒頭から北欧の静けさ漂う音色。作曲家の隠れた8つ目の交響曲とでも言うべき傑作を雄弁に聴かせてくれた。以前聴いたインキネン/日フィルのような懐深い響きというよりは、全体的に筋肉質な構築。イングリッシュ・ホルンが歌う「トゥオネラ」も伸びやかだが停滞しない。ソロの森さんお見事!輝かしい「帰郷」ではブラスの縦がバシッと合う気持ちよさ。勇壮な締め括りでは一度トゥッティで叩きつけてからsubitoで落とし、すぐに膨らみを取り戻す手法が見事に決まった。弦のまとまり、オケ全体のピッチはやや気になったが好演。

休憩後はニールセン「第5番」。巨大な肯定へと力強く進む第4番「不滅」とは対照的に、作曲家の苦悩を追体験する思索の旅のような作品だ。第1楽章で強弱のニュアンス、演奏位置を変えて頻繁に現れるスネアドラムの主張からもそれを窺い知ることが出来る。(今回のスネアはなかなか見事だった)
ダウスゴーは殊更深刻ぶることはなく、ダイナミックに音楽を波打たせた。どちらかといえば、前回新日本フィルに客演した時に振ったという「不滅」向きのアプローチだが、第2楽章では目が覚めるような迫力をもたらしていた。大きくバネのように体を使い、雄弁に率いる名船頭はオーケストラをも奮い立たせた。軍楽隊の乱入の遠近感、薄明から朗々とした語りまで使い分けるヴィオラの存在感など、曲中要素の有機的連関も存分に感じられた。初日ゆえか合奏精度は前半に引き続き問題があったが、ダウスゴーの音楽はやはり格別である。

余談になるが、前半の弱奏箇所で一箇所から忙しなく咳き込む音が聞こえてきて感興を削がれてしまった。生理現象には基本的に拘泥しないつもりだが、今回は悪質なので別だ。全くハンカチなどで音を減衰させる気もなく、歌舞伎の見得のような異様な咳をあたりに振りまいていた。文字化すると「えぇっへん!えぇっへん!」という感じ。

2016/1/18
リッカルド・ムーティ指揮シカゴ交響楽団
@東京文化会館

ベートーヴェン:交響曲第5番
マーラー:交響曲第1番「巨人」

管弦楽:シカゴ交響楽団
コンサートマスター:ロバート・チェン
指揮:リッカルド・ムーティ

米国ビッグ5の雄、と言って良いだろう—巨匠リッカルド・ムーティを2010年から音楽監督に擁しているシカゴ交響楽団は、今演奏面においてライナー、ショルティに続く黄金時代を迎えている。総合的な勢いで言えば西海岸のロス・フィル、サンフランシスコ響あたりがめざましいが、何ものをも寄せ付けぬオーケストラ自体の風格と言う点で、「ムーティ×シカゴ響」は別格の存在感だ。今回はアジア・ツアー中のわずか2公演という形での来日だが、それでも彼らの芸術の一端に触れられる喜びは大きい。

肉料理を2種類組み合わせたような重量感のプログラム。
ベートーヴェン5番は最近の潮流も何処吹く風、弦楽器は16型編成での演奏であった。冒頭の運命動機から、みっちりと身の詰まった音に魅せられる。そのヴォリューム感たるや圧巻!ムーティの指揮は王道を往くもので、地に足をつけていささかも揺るがない音楽作り。テンポは中庸で、近年のスポーティな演奏に聴き慣れていると遅く感じる程度。第2・第3楽章も落ち着いた語り口が印象的だが、時折見せる優美な表情はイタリア出身のマエストロならではの味か。遅めのテンポで第3楽章が終結に近づき、音楽のスケールがみるみる膨らんで迎える第4楽章は文字通り「歓喜の爆発」。ムーティはここに来てテンポを一気に速め、アクションも大きくオーケストラを率いた。ティーレマンのような大芝居はないが、第1主題が回帰するたびに仕切り直しのごとくテンポを上げていたのは意図的な設計だろう。終局では低弦に現れる運命動機を時折強調しながら、威風堂々と締めくくられた。演奏を終えた団員の表情は朝飯前といった様子だが、既に演奏会が終わったような熱狂の渦。

続いてのマーラー「巨人」。これまた勝負どころの大曲で、特に「シカゴ響のマーラー」はショルティ時代にブランドとして確立したレパートリー。かつて、同じ文化会館でショルティ指揮のマーラー5番を聴いた往年のファンも多いだろう。
舞台上は管楽器の数がぐっと増えて華やか。下手に2対のティンパニと打楽器、ホルンが横一列に8本ずらりと並び、その後ろにトランペットとトロンボーン、更にその後ろにテューバと続く。シカゴ響の配置で特徴的なのが、管・打楽器が山台を使用しないこと。この特有の配置が、全セクションが輝かしく鳴り渡るシカゴ・サウンドに関係あるのかもしれない。
ムーティはあまりマーラーを振らないイメージがある。録音ではフィラデルフィア管との1番、ウィーン・フィルとの4番(こちらは希少セット中の一枚)のみしかないはず。今回シカゴ響とどんなマーラーを聴かせてくれるのか興味津々だったが、予想外に唸らせてくれた。全体的に慎重に練り上げられた重厚な「巨人」で、一般的にテンポを上げていく箇所でもほとんど加速はない。遅めのテンポの中でオーケストラはじっくり互いを聴き合い、繊細なグラデーションの変化を実現した。この手法が随所で絶大な効果を発揮、第1楽章序奏部のフラジオレットは前半に続き濃密な弦(恐ろしいほど痩せない!)が蠱惑的で、主部に入ると裏で吹くバス・クラリネットが異様なまでの大音量で思わずエア苦笑してしまった。第2楽章トリオのフレージングは甘美を通り越して田舎臭く不器用なのがまた良い。第3楽章のしゃくりあげに悶え、「さすらう若人の歌」からの引用箇所ではオペラティックなフレーズの伸縮が見事にハマった。第4楽章結尾でムーティはどんどんテンポを落としていき、圧倒的なスケールで振り抜いた。このあたり音楽をぐいぐいと引き伸ばして行く力強さ・しなやかさは、マゼールのそれを思い起こしたほど。
 
シカゴ響はどんなに強奏しても音が煩くならず、弦管が埋もれない驚異的なアンサンブル力を見せた。以前ハイティンクと来日した際、「最高潮に達したと思ったオーケストラのサウンドが、これでもかと膨れ上がっていく」といった旨の評を読んだが、まさにその通りのポテンシャルである。文化会館の2・3階客席にトロンボーンの響きが跳ね返るのが「見える」オケなど世界に幾つあるだろう?テューバも楽音というよりは地響きに近い。大活躍の1stティンパニ奏者はバイエルン放送響・ルツェルン祝祭管のレイモンド・カーフスだったようだ(力強い打音は彼特有のものだし、後に公式FBに上がったツアー写真でも確認できた)。シカゴ響が誇る最強の金管群が存分に吹けるのも、分厚い弦あってこそ。前後半共に「足し算の音楽」なのだと痛感した。物理的な音量の大小というよりは、表現の変化で音楽を動かしていく。なので音楽に通底する太い芯が些かも揺るがず、全体的なスケール感を与えているのだ。アンサンブルの精度は日本のオケも大差ない(一部上回っているか?)が、個々の楽員の表現が合わさった結果として「合奏」へ昇華するという点で、シカゴ響が一枚上であると思う。日本のオケは往々にして「合わせに行く」のだ。もっともこれはお国柄や個性の問題でもあるが—。

やや脱線した。終演後にサイン会を控えていたからかアンコールが演奏されなかったのは残念(他公演地では「ナブッコ」序曲が演奏されたらしい)だが、これだけ重量級の音楽を聴かせてもらえれば不満はない。ムーティのマーラー解釈が予想以上に泥臭かったのも収穫だった。20世紀半ばをルックバックするようなベートーヴェン&マーラーを現代の名人集団=シカゴ響で聴くという体験は、そうそう出来るものではないだろう。

2016/1/17
東京フィルハーモニー交響楽団 第873回オーチャード定期演奏会
@Bunkamuraオーチャードホール

ハチャトゥリアン:バレエ音楽「ガイーヌ」第1組曲より 抜粋
ばらのおとめたちの踊り
子守唄
山岳民族の踊り
レズギンカ

ショスタコーヴィチ:交響曲第7番「レニングラード」

管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:荒井英治
指揮:井上道義

2014年7月に予定されていたプログラム、2年越しの実現となった。ミッキー氏療養のためキャンセルとなり、盟友尾高さんがラフマニノフ2番などで代打を務めたのも記憶に新しい。

ダボッとした衣装で登場したミッキーは足取り軽く、病気前より一層生気を増してオーケストラと対話していた。ハチャトゥリアン「ガイーヌ」第1組曲抜粋では、バレエダンサーを志したというミッキーの変幻自在な踊りに煽られ、オケも激しく体を動かして熱演。こういう曲を弾くと東フィルはとにかく元気に鳴らしてくれる。やや野放図でバランス度外視のような感もあるが、ハチャトゥリアンならこれも良いか。「レズギンカ」はフェドセーエフのような即興プレイは入れないが、十分豪快で野趣に富む。聴いているこちらが恥ずかしくなってしまうような素朴な旋律も、共感たっぷりに奏される。今回のためにミッキーが呼び寄せたというゲストコンマスの荒井さんは冒頭から弾けまくり!

大病に打ち勝ったミッキー、前半のようなリズミカルな曲での個性もさることながら、シリアスな大曲における深い表情が一層説得力を増したように思う。まさに今回のショスタコーヴィチ「レニングラード」はそれの典型であろう。80分超え、正面突破の大熱演となった。国内オケでこれだけの演奏が聴けるか!というような充実ぶりで、弦の量感、金管の容赦ない強奏は勿論のこと、EsClの鋭さや打楽器の充実も特筆モノ。最後には「巨人」ばりにバンダが立奏!両端楽章でのオーチャードホールが崩れ落ちんばかりの大音響も見事にバランスよく構築されたが、それ以上に緩徐楽章の哀切極まる弦の響きに胸を打たれる。さすがはショスタコーヴィチ指揮者・ミッキー。
演奏後は、喝采の中で尾高さん(前日までの名フィル客演を終えて駆けつけたらしい)にミッキーが感謝を告げてお開きに。見ているこちらがホッコリとするようなワンシーン、実に快かった。

2016/1/16
神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第315回定期演奏会
@横浜みなとみらいホール

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
~ソリスト・アンコール~
J. S. バッハ:無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番より 第3楽章 Andante

ブラームス:交響曲第2番

ヴァイオリン:佐藤俊介
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
コンサートマスター:﨑谷直人 
指揮:モーシェ・アツモン 

1978年~83年に都響のシェフを務めた名匠・モーシェ・アツモンが神奈フィルに客演。名フィルの名誉指揮者でもある彼、東海地方ではマーラーの第3番やベートーヴェン「第9」などで腕をふるっていたようだが、首都圏オケへの客演は2011年4月の都響以来のはず。震災直後に都響で振ったブラームスの2番を携えての公演だ。

前半、佐藤俊介をソロに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲。アツモンが導く響きは王道そのもの、19世紀的な薫りが漂う。気宇壮大な導入からソロにバトンが手渡されると、佐藤さんはまるで毛を逆立てたハリネズミのような怒気で応じた。フレージングにも即興的な要素が多く、ハンガリーの路傍の楽師といった趣。その奔放にして大胆な演奏は、もしかしたら初演者のヨアヒムはこんな演奏をしたのではなかろうか、と思わせる。ブラームスはジプシー音楽に強い拘りを抱いていたし、ヨアヒムもハンガリー出身のヴァイオリニストだった。そこまで遡った上での考証的解釈とすれば実に興味深い。演奏自体で言えば、ガット弦の響きは新鮮で、楽曲中の動機から精妙に練り上げた自作カデンツァも素晴らしい。指揮のアツモンもハンガリー出身だが、彼が作る音楽はヨーロッパの正道を往くものであった。両者の方向性はやや異なっていたが、「競」奏曲としての面白さを堪能した演奏だった。 

後半のブラームス2番、オケは前半と同じ14型。アツモンは御歳84歳だが、舞台姿、指揮ともに矍鑠としており壮健そのもの。コンチェルト同様暖色系の響きを作りつつ、引き締めるところはしっかり振って素晴らしいブラームスを展開した。イスラエル人であり、都響でマーラーを多く指揮するなど、インバルと重なる点の多いアツモン。彼の音楽にも、若干の共通言語が聴き取れた。ユニゾンはたっぷりとした弓圧で弾かせ、ピッツィカートなどの隈取りも抜かりない。全体の構築の見事さ、柔らかい歌心、終楽章コーダにおける無理のない高揚と、これだけのレヴェルでブラームス2番を振れる指揮者がいまどれほどいるだろうか。トロンボーン群の濁りは全体的にやや惜しかったが、内声の交錯を自発的に表出させた弦5部はじめ、神奈フィルの献身も素晴らしい。どことなく中央ヨーロッパの風景が浮かんできたのは、アツモンの年の功のなせる技だろうか。

来シーズンは12月名フィルに客演するアツモン。これだけ滋味深いブラームスを聴かせてもらっては俄然行きたくなるというもの。円熟のマエストロという言葉は彼にこそ相応しい。

2016/1/15
新日本フィルハーモニー交響楽団 第551回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール

ブリテン:戦争レクイエム

ソプラノ:アルビナ・シャギムラトヴァ
テノール:イアン・ボストリッジ
バリトン:アウドゥン・イヴェルセン
合唱:栗友会合唱団(合唱指揮:栗山文昭)
児童合唱:東京少年少女合唱隊(合唱指揮:長谷川久恵)
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
コンサートマスター:西江辰郎(大オケ)、崔文洙(室内オケ)
指揮:ダニエル・ハーディング

ハーディングの"Music Partner of NJP"としての任期もいよいよ終わりが近づいてきた。1月の登場はブリテン「戦争レクイエム」のみだが、それで充分と思わせられる圧巻の演奏。早くも今年のベスト候補に躍り出た。

力が抜けきった指揮から豊かな流れを導くハーディングは流石で、「イギリス人としてこの曲を振る」ことに対する特別な思い入れも感じられた。激昂する箇所、沈黙に語らせる恐怖、すべてがかくあるべきという確信に満ちている。声楽陣では、なんといっても英霊が憑依したようなボストリッジの語りが凄すぎる。詩の一句一句を抉り出して意味を与え、母音・子音、音価の調整など全てが自在だ。細い体躯から信じられないほどの声量だが、朗々と拡がるというよりは縦に鋭く伸びゆく独特の発声で唸らせる。シャギムラトヴァ、イヴェルセンも素晴らしかったが、キャスティングとして「露・英・独」であればブリテンの構想と同じで完璧だったのだが。また、ボストリッジがあまりに雄弁だったのでイヴェルセンが若干割を食った感がないでもない。(これは大変高次元な話だが)
理想的なバランスのSTB独唱と並び、ラテン語の栗友会合唱団にも大拍手を贈りたい。"Requiem eternam"の終結部、全曲の締めくくりでの最弱音でもブレない和音は見事だったし、"Dies Irae"でのリスクテイキングな劇的表現には舌を巻いた。男声独唱が歌うのは目を覆いたくなるような悲惨な情景だが、それだけに終局に訪れる切実な祈りでは全てが渾然一体となり胸を打つ。
オーケストラもこの楽団のベストに近いパフォーマンス。先鋭・即興的な表現を求めたいチェンバー・オケにはより自発的な表現が欲しかったが、西江コンマス率いる大オケの水準は非常に高い。特に弦のシリアスな表現は理想的で、金管も総じて安定。"Dies Irae"冒頭のホルンを客演トップが外したのはご愛嬌か。

あらゆるレクイエムの中で最愛の作品が「戦争レクイエム」なので、望みうるベストの布陣を揃えて核心に迫った演奏者には大感謝である。2009年の小澤/SKO以来の実演だったが、深い祈りとアイロニーの絶妙なバランスなど、総じて今夜に軍配を上げたい。演奏後の静謐な長い長い沈黙と共に、深く胸に刻まれた公演となった。 

2016/1/14
読売日本交響楽団 第554回定期演奏会
@サントリーホール

R. シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」
リスト:ピアノ協奏曲第2番
~ソリスト・アンコール~
リスト:巡礼の年第1年「スイス」より ワレンシュタット湖畔で

ツェムリンスキー:交響詩「人魚姫」

ピアノ:フランチェスコ・ピエモンテージ
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:長原幸太
指揮:ミヒャエル・ボーダー

新春スペシャルの「新世界より」で充実の演奏を披露したボーダー×読響、薫り高いドイツ名曲を組み合わせての定期演奏会である。リヒャルト・シュトラウス、リスト、ツェムリンスキーという三者を通し、ヴァーグナーという巨大な影が見え隠れする好プログラム。音楽における「女性」とは何か、という問いも隠れキーワードであった。

冒頭「ドン・ファン」から目覚ましい快演!16型オケの誇る重厚さはそのままに、響きの透明感が通常比3割増しになった。ボーダーの指揮は細かいが嫌味でなく、フレーズの膨らみが豊か。ドイツの歌劇場で信頼を置かれている名匠の実力は確かだ。
リストのピアノ協奏曲第2番、ソロのピエモンテージはロマン派の協奏曲で名盤も残すピアニストだが、流石にタッチの選択から才能を感じる。マツーエフのような豪腕で叩き付ける路線ではなく、知的で洗練されたピアニズムだ。応じるオケも自信と風格に溢れ、リストの協奏曲とはこれほど面白い作品だったかと再認識する良い機会となった。ピエモンテージはアンコール「巡礼の年」で一層冴え渡る。

演奏機会が稀少なツェムリンスキー「人魚姫」は、哀しくも美しい叙情詩。(そもそも、スコアが発見されたのも最近らしい!)いわゆる「後期ロマン派要素」が満載で、ウィーンの爛熟と先達の影響もたっぷりと感じさせる。シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」と同じ演奏会で初演された作品ということだが、確かに同時代の風を感じた。全3楽章、構成面ではやや弱いが、精緻な描写と豊麗な管弦楽の魅力には抗えない。前半のリヒャルト・シュトラウスと対比してしまうと少々分が悪いようにも感じるが、ウィーン版「シェエラザード」とでも呼ぶべき交響詩だ。第1楽章冒頭の黒々とした海の描写は詩的であり、また様々なミネラルを含んだリアルな海をも想起させる。人魚姫の悲哀は全曲の循環主題として表現され、ヴァイオリン・ソロをはじめ様々に受け継がれていく。こういった物語性を感じられたのも、ボーダー×読響の巧みな演奏があってのこと。実に豊かな一夜であった。

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