たくさん聴かな、あかんやん。

都内在住私大生。自分の心に正直に書きます。

January 2016

2016/1/13
クリスチャン・ツィメルマン ピアノ・リサイタル
@サントリーホール

シューベルト:7つの軽快な変奏曲
シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番
~アンコール~
シマノフスキ:前奏曲 Op.1-1

ピアノ:クリスティアン・ツィメルマン

一ヶ月以上日本に滞在して各地でリサイタルを行っているツィメルマン。実際日本に家があるそうだし、何より彼はピアノを自分で組んでバラせるらしい。徹頭徹尾自分の拘りを追求するタイプの演奏家だ。録音マイクもなし。

シューベルトの3作を集めたプログラム、ソナタ群と変奏曲はかなり作曲年代が離れている。それは演奏からも明らかで、若書きの「7つの軽快な変奏曲」は柔らかい陽光が差すような丸みで奏でられ、ツィメルマンも語るようにハイドン、ベートーヴェンの影響が楽想の中に感じられる。
一曲目を弾き終え、拍手をしばし受けたのちすぐ弾き始めたD.959では表情にやや陰りが。晩年の作品群へとエスカレーターを駆け上がるように移り、それを鮮烈に比較対照するような流れだ。ツィメルマンは速いテンポで流れるように奏でるが、ペダリングや強弱のバランスは精緻に富む。この人もまた、自分のカラーを押しつけがましくなく展開できるピアニストの一人だ。第2楽章の慟哭も、混濁とは無縁。高度なバランス感覚に支えられている。

休憩を挟んでのD.960も快速だが、曲中にふと訪れる静寂の中に哀しみが滲む。聴こえるか聴こえないかという超最弱音でも音の芯が決して閾値を下回らず、凛とした表情を保つのには降参だ。ツィメルマンは譜めくり要員を置かずに自らめくっていき、時折フレーズを口ずさんだり指揮をするようなそぶりまで見せる。とにかくステージ上のすべての事象を自らのコントロール下に置かなければ気が済まないのだろう。ただ楽曲としてはD.959に若干相性があった感も。ツィメルマンのシューベルトは職人により丁寧に仕上げられたガラス細工を見るような美しさを有しているが、それはこの作曲家の音楽と少々趣を異にするものにも思われた。たとえば、内田光子やブレンデルのような魂の逍遥は感じないし、二つのソナタともにクライマックスの構築はかなりショパン寄りの表現であった。

ツィメルマンには珍しいというアンコールでは、ブーレーズに捧げられたシマノフスキが演奏された。民族性どうこうを唱えるつもりはないが、これはもう圧巻の演奏。正直なところ、こちらに心が大きく揺さぶられた。演奏後はステージの隅で調律師の男性と喜びを分かち合っていたツィメルマン。ピアノ内部の響かせ方や調律まで独自の流儀を貫いたステージだった。 
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2016/1/12
東京都交響楽団 第800回定期演奏会Aシリーズ
@東京文化会館

メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
〜ソリスト・アンコール〜
クルターク:「サイン、ゲーム、メッセージ」より ドロローゾ

R. シュトラウス:家庭交響曲


ヴァイオリン:イザベル・ファウスト
管弦楽:東京都交響楽団
コンサートマスター:矢部達哉
指揮:小泉和裕

都響第800回定期を指揮するのは終身名誉指揮者(えらく大層な肩書きだ)の小泉和裕。定期デビュー、フルネと前後半を振り分けた第600回定期を含め、これまで3回演奏している「家庭交響曲」(今回が4度目)をメインに、イザベル・ファウストのメンデルスゾーンという贅沢な選曲だ。

そのメンデルスゾーン、ファウストのヴァイオリンは跳躍や移弦、重音の精度まで現役最高峰の演奏ではなかろうか。禊を済ませたような集中力は以前新日本フィルで聴かせたブリテンやブラームスでも感じられたので、これが彼女のスタンダードなのだろうが—驚異的だ。辛口の表現で、音の明晰さが常に保たれているので音楽がきりりと引き締まる。第1楽章終盤の斬り込むようなアッチェレランドに巧く付けた14型のオケも見事だったが、木管の細かい走句などに今一歩の洗練が欲しい。これはオケの責任もあるが、協奏曲を暗譜で振り、終始オケの方を向きっぱなしの指揮者に難点があった。そもそも協奏曲で譜面を置かない必然性がどこにあるのか?もし途中で演奏が止まりでもしたら、どこからやり直すのか。以前ルイージ/N響とブッフビンダーがモーツァルトを演奏中にソリストが止まってしまったことがあったが、譜面を置いていたルイージは即座に練習番号を叫んでやり直した。譜面を見なくても全く構わないが、せめて置いておいてもらわないと聴いているこちら側がハラハラしてしまって良くない。
ファウストのアンコールはクルターク作品、本編よりこちらの方が彼女に適性があったように感じた。

後半のR.シュトラウス「家庭交響曲」、音楽の頂点は長大なアダージョ部に置かれた。小泉さんは慣れたものといった感じ、迷いのないリードから引き出される濃密な楽音がホールを満たす。Cbの大胆で朗々とした刻み、弦トップ(Vn&Vc)の交歓が愛に満ちた夜の営みを描写し、絶頂では小泉さんも大きく唸り声を上げての大熱演となった。しかし—冒頭ソロで派手に外し、全体的にもピッチなど雑さが目立った1stTp、途中D音の入りが唐突過ぎた1stObなど、都響らしからぬ乱れも少なくなかった。全体的に管楽器はかなりエキストラが多かったが、それにしても一本調子な表情、大音量でのヤケクソな鳴らし方など粗い。指揮者は暗譜でグイグイと引っ張りたかったと思われるが、オーケストラは曲を消化するのに手一杯で、曲理解における大きな溝があったのでは。(歩み寄らない指揮者もまずい)

小泉さんはブルックナーでは毎回相当な名演を聴かせてくれるが、他ではこれといった当たりがない。それでも水準は外さない人だが、今回はガッカリするような演奏。彼と都響という親密な家庭を訪問する気持ちで聴きに行ったが、思わぬ不仲を見てしまった。どの家庭にも事情はあるのだろうが・・・。
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2016/1/10
NHK交響楽団 第1826回 定期公演 Aプログラム
@NHKホール

ビゼー:小組曲「こどもの遊び」
ドビュッシー(カプレ編曲):バレエ音楽「おもちゃ箱」

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ペトルーシュカ」(1911年版)

語り:松嶋菜々子
管弦楽:NHK交響楽団
コンサートマスター:伊藤亮太郎
指揮:山田和樹

N響ではかつて副指揮者を務めていた山田和樹、オーチャード定期などには登場していたようだが、今回が定期デビュー。おそらく日本人指揮者が登る割合がもっとも低いN響定期とあって、選曲にも彼らしい強い拘りが観られる。ビゼー、ドビュッシー、ストラヴィンスキーというフランス的な作曲家を時代順に揃え、なおかつ「子供の視点」という共通項で括っている。

一曲目のビゼー「子供の遊び」では、子守歌での蕩けるような弦楽が絶品で、弾けるような推進力も併せ持つ。早世した作曲家は常に子供への温かなまなざしを忘れなかったが、それがピアノ曲として、やがて管弦楽として結実したのがこの組曲だろう。屈託のない表情はヤマカズの得意とするところ。オーケストラも軽やか。

続くドビュッシー「おもちゃ箱」、松嶋菜々子の語りを加えての演奏だが―これははっきり言って失敗だろう。アイディア先行、と言うのは厳しすぎるかもしれないが―本来切れ目なく演奏されるバレエ音楽の曲中に語りが挿入されることで、舞台上の緊張感がしばしば分断されてしまう。(語りを想定した武満徹「系図」等ならともかく、である)内容的には当時のフランス社会や文化を感じさせつつ、題名通りおもちゃ箱をひっくり返したような賑やかな響きが聴こえてくる作品なのだが、ヤマカズともあれば音楽だけで勝負して欲しかった。色々なしがらみがあるのだろうが、音楽単体では自信が無かったのか?と邪推をしてしまう。松嶋の語りも淡々とし過ぎ、必然性を感じない。指揮者は上機嫌だったが・・・。

後半、大編成でのストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」はオケの合奏力に唸った。N響が活力たっぷりに鳴らせばNHKホールが実によく鳴るという好例であった。多要素の突然の乱入、変拍子など難所山盛りの楽曲をヤマカズは隅々まで整然と指揮。それに嬉々として応えるN響は流石で、木管の導入に続き弦が初めてトゥッティで鳴る箇所はストリングスの全弓が視覚的にも凄い。
ただ、バレエ音楽にしては(前半と違って)腰が重すぎる感も否めなかった。オケの安定した音楽に指揮者が無理なく乗っかっているといった構図で、猛者揃いのオケの胸を借りて楽曲の色彩を全開にする意志はなかったようだ。結果として、「ペトルーシュカ」特有のカオスはすべて整然と並べられた。この生真面目な演奏には賛否両論だろうが、あまり自分は感心しなかった。全曲でとくに素晴らしかったのは「馭者と馬丁の踊り」で、オーケストラ全体が拍動を刻みながらスケールを膨らませていく様子が手に取るように分かった。ここでのヤマカズは、まるで反復横跳びをするように楽しげに舞っていたが―はたして。

最初と最後、「子供の遊び」「ペトルーシュカ」はなかなか良かっただけに、大きく落ちた中プロがなんとも残念。N響定期デビューということで若干気負いすぎたのか、ヤマカズの頭の良さ&器用さがマイナスに出た結果だと思う。こういう聴衆の生理を無視したプログラミングを見る限り、各種メディアで絶賛されるほどには新ヤマカズ氏を賞賛する気にはなれないのである。
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2016/1/9
東京ユヴェントス・フィルハーモニー 第11回定期演奏会
@すみだトリフォニーホール

ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲
ブルックナー:交響曲第8番

管弦楽:東京ユヴェントス・フィルハーモニー
コンサートマスター:中村文(ドビュッシー)、八木麻友(ブルックナー)
指揮:坂入健司郎

躍進続く坂入さん×東京ユヴェントス・フィル、創立以来のブルックナー。スタートが「第5番」というのも驚きだが、2回目にして一気に「第8番」の高峰へと駆け上る。これを聴かずにどうする、とすみだトリフォニーへ。

ブルックナー8番の前プロというのはやや珍しいが、ドビュッシーの「牧神」と来れば合点がいく。20世紀音楽がここから始まった象徴的作品にして、ドビュッシーはブルックナーと同じくヴァーグナーの強い影響下にある作曲家だからだ。長さも適切だろう。
物語の開始を告げるフルートは若干緊張気味だったようだが、その後は安定して美しい。オーケストラ全体の中では、客演コンマスの中村文さん率いる柔和な弦が印象的。かなり大きい編成(後半と同じ)での演奏だが、良い意味で重みを感じさせず、それでいてニュアンスの変化に富む濡れたような音色だ。管楽器個々の吹き回しも主体性があり、徐々に聴き手は夢幻へと誘われる。坂入さんは細かく振っており、雰囲気に任せることはしなかった。曖昧ではなく、緻密さの追求の結果として生まれた抒情だったように思う。終局のアンティーク・シンバルまで演奏者の意思を感じる音楽だった。

そして後半のブルックナー8番。まず一言、恐るべき演奏であった。音楽的な到達度はこちらの想像の遥か上をいっていた。(なお、1楽章のある一点を除きノヴァーク版準拠)
18型のオケが、指揮者と共に深い呼吸を共有する。チェリビダッケを彷彿とさせる重厚なテンポ—演奏時間は90分近くとなったが、弛緩や「遅くあること」の目的化は感じられない。演奏家と指揮者の目指す地点が完全に一致しているので、舞台上の全事象が必然となったのだ。
畢生の大曲はデモーニッシュな響きで彩られたが、繊細な組み立ての集積であったのは前半と同じ。ゆっくりとした進行の中でもフレーズの山・谷が意識されており、平面的な音楽にはならない。トリフォニーの適度な残響を活かしたパウゼの取り方も理想的だ。
オーケストラの充実もユヴェントス・フィル史上最高水準で、セミ・プロと評しても過言ではない。第1楽章結尾近く、金管のC連呼を導く管弦楽の咆哮―地獄の底がぱっくりと開いてこちらへおいでおいでをしているような―において、このカタストロフィを強力な低弦ががっしりと支えていたのは見事。スケルツォ主部の大胆さ、悠久のアダージョなど、あらゆる点でピラミッド型の剛毅な構築がモノを言った。スタミナと繊細さの両方を要求される管楽器も大健闘で、終楽章冒頭のファンファーレも決まった。正確性のみならず音色もよく通り、楽曲中しばしば訪れるゲネラル・パウゼの品格を何ランクも高め、指揮者の最後の煽りにも崩れずに輝かしく全曲を締め括っていた。

終結から10秒ほどはあっただろうか、ゆっくりと感嘆の声が漏れるように客席から大きな拍手とブラヴォーが放たれる。アマチュア・オーケストラという枕詞をおかずとも、まぎれもなく第一級の、彼らにしか出来ないブルックナー演奏だった。坂入さんと東京ユヴェントス・フィル、その周囲を巻き込む力も含めて傑出した組み合わせである。

(2016/1/31追記)早速この演奏会の動画がYouTubeにアップされていました。CD化の際は勿論求めますが、まずはこれを楽しみたいと思います。
 
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2016/1/7
読売日本交響楽団 第588回サントリーホール名曲シリーズ
@サントリーホール

ヴァーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲

ヒナステラ:ハープ協奏曲
~ソリスト・アンコール~
ゴドフロア:ヴェニスの謝肉祭

ドヴォルジャーク: 交響曲第9番「新世界より」

ハープ:グザヴィエ・ドゥ・メストレ
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:長原幸太
指揮:ミヒャエル・ボーダー 

読響はここのところ、年始の名曲選のような演奏会をシリーズに取り入れている。昨年はメルクルによるチャイコフスキーとヴァーグナーだったが、今年はボーダーによる「新世界より」。

中プロに入ったのは、ヒナステラの珍しいハープ協奏曲。多彩な打楽器による色彩豊かなサウンドが響き、精緻な書法の中に南米の浮き立つリズムが組み込まれた佳作。暗譜で弾いたメストレは楽音に匂い立つ色気があり、音量やフレージングも語るように自在だ。真正面で見ていると、作品を完全に掌握した迷いのなさに舌を巻く。リズム処理への細やかさが光るボーダー(彼のレパートリーからして、滅多に振る作品ではないだろうに!)の指揮のもと読響も華やかでキレの良い演奏を聴かせた。

順番が前後したが、ヴァーグナー「マイスタージンガー」前奏曲もなかなかの好演。変にドイツ風を強調したりはせず、引き締まったスポーティな造形が魅力的だ。ドイツの劇場で日常的に聴かれるヴァーグナーは、案外こういった趣向のものではなかろうか。
後半のドヴォルジャーク「新世界より」でもやはり明晰な棒がオケ全体を引き締め、民族的情緒に頼らない淡麗な演奏となった。ボーダーは現代オペラで強みを聴かせる指揮者と聞くが、なるほどと思わせる細部への気配りが心地よい。カンブルランとの共同作業で鍛えられているからだろうか、現代的感覚を持つ指揮者と読響の相性は良好で、今回もその例に数えられる。第1楽章でHr日橋さんが珍しく外したのには驚いたが、木管中心に息の長いフレージングが紡がれた。オケの反応が思いのほか淡白だったが良い組み合わせだと思う。
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2016/1/4
キユーピースペシャル ニューイヤー・コンサート2016
ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団
@ミューザ川崎シンフォニーホール

スッペ:喜歌劇「ウィーンの朝、昼、晩」序曲
J. シュトラウス1世:カチューシャ・ギャロップ
レハール:喜歌劇「メリー・ウィドウ」より ダニロ登場の歌「おお祖国よ」
レハール:喜歌劇「ジュディエッタ」より 私の唇は熱いキスをする
イヴァノヴィチ:ワルツ「ドナウ川のさざなみ」
カールマン:喜歌劇「マリッツァ伯爵家令嬢」より 来い!ジプシーよ
ワルトトイフェル:スケーターズ・ワルツ
ロンビー:コペンハーゲンの蒸気機関車ギャロップ
J. シュトラウス:1世:ため息のギャロップ

J. シュトラウス2世:喜歌劇「くるまば草」序曲
カールマン:喜歌劇「マリッツァ伯爵家令嬢」より 二重唱「ハイと言って」
マンクージ:さくらワルツ
シュランメル:ウィーンはいつもウィーン
J. シュトラウス2世:喜歌劇「こうもり」より 三重唱「私は、不安でいっぱい!」
J. シュトラウス2世:ワルツ「美しく青きドナウ」
~アンコール~
J. シュトラウス2世:喜歌劇「こうもり」より ぶどう酒の燃える流れに~乾杯の歌
J. シュトラウス1世:ラデツキー行進曲

ソプラノ:アンネッテ・ダッシュ
テノール:ミロスラフ・ドヴォルスキー
バリトン:ダニエル・シュムッツハルト
舞踏:ウィーン国立バレエ団メンバー
管弦楽:ウィーン・フォルクスオーパー交響楽団
指揮:グイド・マンクージ

ある意味今年のWPh以上にウィーン的な、愉悦溢れる演奏会だった。指揮のマンクージ(ウィーン少年合唱団出身で、OBのコルス・ヴィエネンシスとのCDもあるそうだ)はユーリ・シモノフを思わせるコミカルな動作で爆笑をとりつつ、音楽的には極めて真っ当。ソロ歌手も豪華で、ソプラノのA.ダッシュは流石の一言だ。
後半はカールマンの甘さに酔いつつ、マンクージ作曲による「さくらワルツ」で身体表現と音楽の一致に感心(曲自体はまあご愛嬌といった感じだが)。床に伏した踊り手が体を起こし、鮮やかなスカーフを舞わせる動作は、萌ゆる花のスロー再生か。最後は華やかにシャンパンの歌、ラデツキーで終結。名曲三昧ということもなく、客席とステージが屈託なく盛り上がった上質なコンサートだったように思う。
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2015-2016
2015年に接した公演の中で、印象に残ったものについて簡単に振り返ります。
 
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2015/12/31
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全15曲演奏会
@横浜みなとみらいホール 小ホール

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第2番

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第3番
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第4番

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第5番

~大休憩~

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第6番
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第7番

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第8番

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第9番
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第10番

~大休憩~

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第11番
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第12番

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第13番
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第14番

ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第15番

弦楽四重奏:モルゴーア・クァルテット
ヴァイオリン:荒井英治、戸澤哲夫
ヴィオラ:小野富士
チェロ:藤森亮一

持論として、「室内楽作品は作曲家の私通である」と思っている。
交響曲というジャンルは、多くの聴衆に体験されることを前提として書かれたものが殆どで、普遍的で明快なメッセージ性が重視されることが多い。一方で、室内楽は限られた人数を対象としている。勿論後世に残れば不特定多数の耳に届くのだが、交響曲という「公式発言」では言えないことを室内楽に託す作曲家は多いのではないか。
ソ連を代表する巨匠ショスタコーヴィチの室内楽作品には、彼のごく個人的な独白を随所に感じることが出来る。交響曲という形式をたくみに用い、ある時は体制礼賛的な作風、ある時は挑発的な作風を使い分けた(勿論、そのように単純化することの危険性は重々に承知しているが!)ショスタコーヴィチは、15の弦楽四重奏曲により濃厚なメッセージ性を託した。第2番から第14番までと、ほとんどの作品をベートーヴェン四重奏団が初演していることも、演奏家たちとの個人的な信頼関係が念頭にあったことをうかがわせる。
モルゴーア・クァルテットによる今回のプロジェクトは、そんな作曲家の深層へ一日がかりで迫る思索の旅である。作曲家の没後40年から生誕110年をつなぐ、絶妙のタイミングで決行された。

第1部からすでに、目覚ましい成果だった。憑かれたように音楽を牽引する1stVn荒井さんの凄さは勿論のこと、Va小野さんも指板寄りの皮相な声と深々とした美音を使い分ける。このクァルテットらしい、鉄壁の結束力だ。穏当に始まる第1番すらすぐに不穏な和音が響き出し、第2番以降はショスタコーヴィチのエッセンス全開。心的葛藤は軋むような強奏のみならず、沈痛な弱音でも語られる。清明なピッツィカートにすらドス黒い自意識の存在が見え隠れ。第3番~第5番では先駆的な楽器の用法、前後に作曲された交響曲群との相互関係も存分に感じられた。

第2部。比較的穏当な第6番・引き締まった構成の第7番を経て、ショスタコーヴィチのクァルテット中もっとも有名な第8番となるが、これが意外にも至って真っ当でストレートな作品として伝わる。普段単品で聴くとDEsCHの刻印や引用の連続に震撼するが、まとめてクァルテットを聴いていくと、むしろ作曲家の「転換期」にあたる作品なのだなあと。「第8」以前が踏襲的な世界だとすれば、以降にはいっそう自由な羽ばたきが聴こえてくる。
モルゴーアQの構成は巧みで、あえて第2部最後に第9番を持ってくることで第3部を予告しているのだ。第9番はモティーフの用法が革新的で、実験音楽的な交錯すら聴かれる。

その第3部では、ベートーヴェンのディアベッリや後期ピアノ・ソナタを彷彿とさせる自在な晩年様式が繰り広げられる。音楽を味わうというより、ショスタコーヴィチの私的な音世界に能動的に付き合う気力が聴き手の側に必要となってくる。
交響曲第14番を思わせる多楽章形式の第11番、短い1楽章と長大な2楽章が対照的な第12番、ヴィオラの深い語りやコル・レーニョが意味深な第13番―いずれも内向的な音楽が続く。 マーラーの第10番と調性を同じくする第14番も奇妙な浮遊感のある音楽だ。11時間半の長い旅を締め括る第15番では、暗い歩みの中に光明が差し、シューベルト晩年の作品群を連想させる。暗く果てしないトンネルを孤独に歩いていくような音楽。

長丁場ゆえ、第3部ともなれば流石のモルゴーアQにも少なからぬ綻びが出てきた。しかし、彼らと共にショスタコーヴィチの生涯を追体験した、その事実こそが重要であったのだ。第15曲を完走し、無事2016年を迎えたわれわれは、不思議な高揚感と連帯感の中にあったような気がする。毎度おなじみの荒井さんのスピーチも、今回ばかりはいっそう深く胸に響いた。彼の感極まった表情を、私は忘れることができない。 
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