February 2016
February 16, 2016
2016/2/16 ジャニーヌ・ヤンセン、イタマール・ゴラン リサイタル
2016/2/16
JUST ONE WORLDシリーズ 第15回 ジャニーヌ・ヤンセン ヴァイオリン
@フィリアホール
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番
バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第2番
ルトスワフスキ:スビト
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第10番
~アンコール~
クライスラー:ウィーン風小行進曲
ファリャ(クライスラー編曲):歌劇「はかなき人生」第2幕より スペイン舞曲第1番
ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン
ピアノ:イタマール・ゴラン
フィリアホールの贅沢なシリーズ、今回はジャニーヌ・ヤンセン。ピアノは多くのソリストから信頼高いイタマール・ゴラン。
ゴラン、後半2曲はエア・ペダルと言わんばかりにステージ踏み鳴らしていた(笑)スタンドプレーとは程遠い、表現の必然とでも言わんばかりの箇所でやっていたので違和感は無し。ピアニストがあれだけ対等以上の表現で挑んできたら、ヴァイオリンを弾く方も燃えないわけないと思う。 至極のリサイタルだった。
JUST ONE WORLDシリーズ 第15回 ジャニーヌ・ヤンセン ヴァイオリン
@フィリアホール
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第2番
バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第2番
ルトスワフスキ:スビト
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第10番
~アンコール~
クライスラー:ウィーン風小行進曲
ファリャ(クライスラー編曲):歌劇「はかなき人生」第2幕より スペイン舞曲第1番
ヴァイオリン:ジャニーヌ・ヤンセン
ピアノ:イタマール・ゴラン
フィリアホールの贅沢なシリーズ、今回はジャニーヌ・ヤンセン。ピアノは多くのソリストから信頼高いイタマール・ゴラン。
前半はブラームスとバルトークの第2ソナタ。ロマ音楽を透かす作曲家の対比であろうか。好い構成だ。雄弁に揺れ動くヴァイオリンは強い個性を持つが、弓圧強いスタイルは単色の白塗りに陥るリスクも孕んでいる。だがヤンセンは賢く、基本的に強い弓圧の中で更に表情を段階的に使い分けていた。前傾姿勢で弾く中低弦、天を仰ぐ高弦の間に、たくさんのパレットを感じた。巧い人だ。
後半ルトスワフスキ「スビト」、一挺のヴァイオリンでオーケストラを奏でるような分厚さと先鋭性を兼ね備えた響きに第一音から仰け反った。ベートーヴェンの第10ソナタでは神わざのような脱力に酔い、第2楽章と終楽章変奏曲の深淵に恍惚とした。作品の偉大さを最大限に引き出す演奏は圧巻の一言、2人の超人的なバランス感覚によって達成された。
アンコールはクライスラー絡みでヤンセンの技巧全開の2曲。普通にやっても十分喝采が来る選曲だが、更に即興的なテンポ変化やフレーズの膨らみ山盛り、これがまた完璧かつ嫌味でないのだから降参だ。
ゴラン、後半2曲はエア・ペダルと言わんばかりにステージ踏み鳴らしていた(笑)スタンドプレーとは程遠い、表現の必然とでも言わんばかりの箇所でやっていたので違和感は無し。ピアニストがあれだけ対等以上の表現で挑んできたら、ヴァイオリンを弾く方も燃えないわけないと思う。 至極のリサイタルだった。
February 14, 2016
2016/2/14 川瀬賢太郎/神奈川フィル 細川俊夫、ヴァーグナー、ベートーヴェン
2016/2/14
神奈川フィルハーモニー管弦楽団 特別演奏会
オーケストラ名曲への招待 川崎公演
~東洋と西洋の出会い―カワケン魔法のレシピ~
@ミューザ川崎シンフォニーホール
細川俊夫:光に満ちた息のように
ヴァーグナー:歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲
ベートーヴェン:ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
笙:宮田まゆみ
ピアノ:津田裕也
ヴァイオリン:石田泰尚
チェロ:山本裕康
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
指揮:川瀬賢太郎
演奏会全体を一貫する物語性、適切な演出効果、そして何より客を置いてけぼりにしない良さ。才人シェフ・川瀬賢太郎のすばらしさが全面に出たプログラムだ。昨今意義深いプログラムは沢山あれど、頭でっかちで客を疲れさせてしまうものも少なくない。このあたり、某若手指揮者は見習って欲しいのだが・・・。
オーケストラが着席するとホールは暗闇に包まれる。どこからともなく流れ出す笙の響きは、聴衆を現世と来世の狭間へ誘うよう(3階正面で聴いたので、実際にはパイプオルガンの位置だと分かったが)。細川俊夫「光に満ちた息のように」が消え入るように終わると、滑らかにE音は続いて「ローエングリン」前奏曲に着地する。現代音楽が雅楽器で奏でられ、伝統的な西洋音楽が近代のオーケストラで奏でられたわけだ。その好対照以上に、古今を問わぬ音楽の神秘性を感じたひと時。「ローエングリン」で音楽が昂る頂点に向けてホールの照明は徐々に付けられ、ついにはっきりとした光に包まれる。照明効果による演出では、アバドがマーラー9番で施したものと並ぶ説得力あるものではなかったか。演奏も見事だったが、オーケストラに滔々とした深い呼吸があればさらに良かった。
神奈川フィルハーモニー管弦楽団 特別演奏会
オーケストラ名曲への招待 川崎公演
~東洋と西洋の出会い―カワケン魔法のレシピ~
@ミューザ川崎シンフォニーホール
細川俊夫:光に満ちた息のように
ヴァーグナー:歌劇「ローエングリン」第1幕への前奏曲
ベートーヴェン:ピアノ、ヴァイオリンとチェロのための三重協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
笙:宮田まゆみ
ピアノ:津田裕也
ヴァイオリン:石田泰尚
チェロ:山本裕康
管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
指揮:川瀬賢太郎
演奏会全体を一貫する物語性、適切な演出効果、そして何より客を置いてけぼりにしない良さ。才人シェフ・川瀬賢太郎のすばらしさが全面に出たプログラムだ。昨今意義深いプログラムは沢山あれど、頭でっかちで客を疲れさせてしまうものも少なくない。このあたり、某若手指揮者は見習って欲しいのだが・・・。
オーケストラが着席するとホールは暗闇に包まれる。どこからともなく流れ出す笙の響きは、聴衆を現世と来世の狭間へ誘うよう(3階正面で聴いたので、実際にはパイプオルガンの位置だと分かったが)。細川俊夫「光に満ちた息のように」が消え入るように終わると、滑らかにE音は続いて「ローエングリン」前奏曲に着地する。現代音楽が雅楽器で奏でられ、伝統的な西洋音楽が近代のオーケストラで奏でられたわけだ。その好対照以上に、古今を問わぬ音楽の神秘性を感じたひと時。「ローエングリン」で音楽が昂る頂点に向けてホールの照明は徐々に付けられ、ついにはっきりとした光に包まれる。照明効果による演出では、アバドがマーラー9番で施したものと並ぶ説得力あるものではなかったか。演奏も見事だったが、オーケストラに滔々とした深い呼吸があればさらに良かった。
転換を挟んでのベートーヴェン三重協奏曲、3名手の室内楽にオケが自在に絡むような構成。楽曲は正直に言ってやや弱いのだが、演奏は真摯そのもの。技巧的に書かれたチェロはじめ、主役に躍り出る箇所とそうで無い箇所がよく描き分けられていた。
後半のベートーヴェン7番は、川瀬さんの新鮮かつ老練な解釈が聴きものだった。テンポ感や音量操作で注目させるのではなく、同じ動機の繰り返しで可能な限り違う表現を求めるなど、アクセント位置の工夫が面白い。また、同じフレーズ内でもティンパニのクレッシェンドにより槌を打ち直したりと、音楽を推進させるという目的意識が感じられた。終楽章では低弦の執拗反復を念押ししつつ、各声部を強烈に戦わせる。こういう演奏で聴くと、ベートーヴェン演奏は本当に無限の可能性を有している。前半のソロ・後半のコンマスの両方を見事に務め上げた石田さんをはじめ、オーケストラの共感に満ちた熱演も素晴らしい。
川瀬さんと神奈川フィルの呼吸、ますます絶妙になってきた。来シーズンも楽しみである。
February 13, 2016
2016/2/13 ホーネック/紀尾井シンフォニエッタ東京 モーツァルト、R. シュトラウス
2016/2/13
紀尾井シンフォニエッタ東京 第103回定期演奏会
@紀尾井ホール
モーツァルト:ディヴェルティメント K.136
R. シュトラウス:ホルン協奏曲第2番
モーツァルト:ホルン協奏曲第3番
~ソリスト・アンコール~
メシアン:「峡谷から星たちへ・・・」より 第2部 第6楽章「恒星の呼び声」
R. シュトラウス:メタモルフォーゼン
ホルン:シュテファン・ドール
管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
コンサートマスター:千々岩英一
指揮&ヴァイオリン:ライナー・ホーネック
紀尾井シンフォニエッタ東京はいつも魅力的な内容を提供してくれるが、ウィーンとベルリンの名物奏者が一度の演奏会に顔を揃え、お互いの十八番を聴かせるとあらば尚のこと聴かない訳にはゆかない。予想通りウィーンのホーネックは調和の美学で魅せ、ベルリンのドールはやや弾けた良さが目立った。
冒頭のモーツァルトのディヴェルティメントK.136、コンマス席に座ったホーネックが輝かしく合奏をリード。名手揃いの紀尾井シンフォニエッタ東京の極上の響きが、絹のようなヴァイオリンの牽引によりいっそう高められたような印象を受けた。
続くR. シュトラウスのホルン協奏曲第2番では、シュテファン・ドールの千変万化の表情が圧巻。若い勢いが楽しい第1番に比し、円熟の筆致が味わい深いこの作品でしみじみとした味わいを聴かせた。ホーネック指揮のオケも広田さんのオーボエをはじめ重層的な音色で魅了した。 ドールがアンコールで吹いたメシアン作品、共感覚の持ち主であった作曲家らしい色彩を感じさせた。
休憩を挟み、モーツァルトのホルン協奏曲第3番もやはり風格あるドールのソロだが、一瞬崩れかかったのは意外。古典だと簡潔に書かれているので、ちょっとしたミスも分かってしまうのは演奏者にとっても怖そうだ。第1楽章結尾のカデンツァでは前半に吹いたシュトラウスの動機を忍ばせ、重音奏法まで盛り込むなど攻めの姿勢がニクい。しかもそれを余裕綽々にやってしまうのだから聴き惚れるしかないのである。
演奏会締めくくりの「メタモルフォーゼン」は編成を拡げ、多声部の巧妙な動きと合奏全体のまろやかさが同居する演奏となった。以前シェーンベルク「浄夜」でも見事な指揮だったホーネック、今回も荘重で良かったが、印象としてはやや淡彩か。これもウィーンの美徳なのかもしれないが。
紀尾井ホールという親密な空間で聴くウィーンとベルリンの名伯楽、何ものにも代え難い耳のご馳走だった。
紀尾井シンフォニエッタ東京 第103回定期演奏会
@紀尾井ホール
モーツァルト:ディヴェルティメント K.136
R. シュトラウス:ホルン協奏曲第2番
モーツァルト:ホルン協奏曲第3番
~ソリスト・アンコール~
メシアン:「峡谷から星たちへ・・・」より 第2部 第6楽章「恒星の呼び声」
R. シュトラウス:メタモルフォーゼン
ホルン:シュテファン・ドール
管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
コンサートマスター:千々岩英一
指揮&ヴァイオリン:ライナー・ホーネック
紀尾井シンフォニエッタ東京はいつも魅力的な内容を提供してくれるが、ウィーンとベルリンの名物奏者が一度の演奏会に顔を揃え、お互いの十八番を聴かせるとあらば尚のこと聴かない訳にはゆかない。予想通りウィーンのホーネックは調和の美学で魅せ、ベルリンのドールはやや弾けた良さが目立った。
冒頭のモーツァルトのディヴェルティメントK.136、コンマス席に座ったホーネックが輝かしく合奏をリード。名手揃いの紀尾井シンフォニエッタ東京の極上の響きが、絹のようなヴァイオリンの牽引によりいっそう高められたような印象を受けた。
続くR. シュトラウスのホルン協奏曲第2番では、シュテファン・ドールの千変万化の表情が圧巻。若い勢いが楽しい第1番に比し、円熟の筆致が味わい深いこの作品でしみじみとした味わいを聴かせた。ホーネック指揮のオケも広田さんのオーボエをはじめ重層的な音色で魅了した。 ドールがアンコールで吹いたメシアン作品、共感覚の持ち主であった作曲家らしい色彩を感じさせた。
休憩を挟み、モーツァルトのホルン協奏曲第3番もやはり風格あるドールのソロだが、一瞬崩れかかったのは意外。古典だと簡潔に書かれているので、ちょっとしたミスも分かってしまうのは演奏者にとっても怖そうだ。第1楽章結尾のカデンツァでは前半に吹いたシュトラウスの動機を忍ばせ、重音奏法まで盛り込むなど攻めの姿勢がニクい。しかもそれを余裕綽々にやってしまうのだから聴き惚れるしかないのである。
演奏会締めくくりの「メタモルフォーゼン」は編成を拡げ、多声部の巧妙な動きと合奏全体のまろやかさが同居する演奏となった。以前シェーンベルク「浄夜」でも見事な指揮だったホーネック、今回も荘重で良かったが、印象としてはやや淡彩か。これもウィーンの美徳なのかもしれないが。
紀尾井ホールという親密な空間で聴くウィーンとベルリンの名伯楽、何ものにも代え難い耳のご馳走だった。
February 12, 2016
2016/2/12 カンブルラン/読響 モーツァルト、マーラー
2016/2/12
読売日本交響楽団 第555回定期演奏会
@サントリーホール 大ホール
モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:長原幸太
指揮:シルヴァン・カンブルラン
今シーズンの読響で特に楽しみにしていたプログラム。モーツァルトとマーラーの「夜の歌」とは、誰でも思いつきそうで実は目にしなかったプログラムではないか。もっともマーラーの標題については論議を呼ぶところだが。
モーツァルト"夜の歌"の弦は10型+コントラバス1。冒頭から肌理が細かく瑞々しいが、カンブルランはそこに繊細な陰影を加えていく。読響の弦は柔軟にして艶消しのサウンドが素晴らしい。快速テンポによりロマンツェ楽章の前衛性は嫌味なく引き出され、その他の楽章も新鮮な工夫に満ちている。いわゆるサロン的なモーツァルトではなく、キリリと引き締まり襟を正して聴く音楽であった。淑やかにして驚きを孕む音楽は、規模こそ違えど後半のマーラーとも呼応する。
読売日本交響楽団 第555回定期演奏会
@サントリーホール 大ホール
モーツァルト:セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
マーラー:交響曲第7番「夜の歌」
管弦楽:読売日本交響楽団
コンサートマスター:長原幸太
指揮:シルヴァン・カンブルラン
今シーズンの読響で特に楽しみにしていたプログラム。モーツァルトとマーラーの「夜の歌」とは、誰でも思いつきそうで実は目にしなかったプログラムではないか。もっともマーラーの標題については論議を呼ぶところだが。
モーツァルト"夜の歌"の弦は10型+コントラバス1。冒頭から肌理が細かく瑞々しいが、カンブルランはそこに繊細な陰影を加えていく。読響の弦は柔軟にして艶消しのサウンドが素晴らしい。快速テンポによりロマンツェ楽章の前衛性は嫌味なく引き出され、その他の楽章も新鮮な工夫に満ちている。いわゆるサロン的なモーツァルトではなく、キリリと引き締まり襟を正して聴く音楽であった。淑やかにして驚きを孕む音楽は、規模こそ違えど後半のマーラーとも呼応する。
マーラー7番は一気に編成拡大、だがカンブルランは大編成を轟々と鳴らして終わる指揮者では当然ない。才人の彼らしい、緻密な構成美と見識に唸る演奏だった。第1楽章でのオーケストラ全体が大きく体を捻るような巧妙なテンポ変化はさすがというほかなく、生まれた綾は蜜が零れ落ちるようで実に美しい。2つの夜曲での浮き立つようなリズムはフランス・バロックへの視点も感じられる。音符山盛りの終楽章で中庸のテンポを設定し、一つ一つの要素をなぎ倒すことなく丁寧に描いたのも納得。ぎゅうぎゅう詰めの要素を敢えて四角四面に描くことで、この交響曲の異質性を印象付けるのだ。ヨーイドンのかけっこでは分からないパロディ。
艶消しのバス・トロンボーンは呆れるほど上手いし、カンブルランに寄り添って弱音での色の移ろいを丹念に表現した読響の美演にも大拍手。今回の演奏では「夜→昼」のグラデーションを感じたのだが、それが「暗→明」に比例しないのが興味深い。世紀末転換期の音楽に顕著だが、夜は暗さの象徴でなく肉欲・性愛であり愛すべきものなのだ。恋人とベッドで戯れているうちに、昼の再来が全くありがたみを失ってしまう—そんな愛に満ちた音楽の薫りに、フランス人ならではの感性を持つカンブルランを見たのである。
February 11, 2016
2016/2/11 高関健/東京シティ・フィル バルトーク、プロコフィエフ
2016/2/11
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第44回ティアラこうとう定期演奏会
@ティアラこうとう 大ホール
バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番
プロコフィエフ:交響曲第5番
ヴァイオリン:会田莉凡
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
コンサートマスター:松野弘明
指揮:高関健
ソロ、室内楽にオーケストラ・・・獅子奮迅の大活躍の会田莉凡さんのバルトークを楽しみに、ティアラこうとうへ。都合が合わずなかなかティアラ定期は聴きに来れないので、かなり久しぶりに訪れた。
そのバルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」は期待以上、聴き応え十分の演奏だった。その若さにしてどこにその要素が、と思わざるを得ない味濃く妖艶な(褒め言葉!)ソロは絶品だ。ハタチ以下の自分が言うのも何だが・・・。民謡収集に余念が無かったバルトークの晩年の境地を感じさせる、緊密な形式を持つ名曲。それでいて融通無碍でどこか浮遊感すらある。
会田さんは第1楽章の野趣あふれる朗唱、第2楽章の羽衣のような弱音と幅広く魅せた。弓圧強くフレーズを弾き切る彼女のスタイルは、バルトーク音楽でいっそう輝く。この曲に強い思い入れがあるという高関さん(彼自身が学生時代試験で弾いたらしい!)とシティ・フィルのサポートも盤石で、20世紀屈指の名曲を見事な水準で堪能した。オーケストラの規模も大きい作品だけに、ソリスト・指揮者・オーケストラのトライアングルが水準高く揃ったことが何より嬉しい。
後半のプロコフィエフの交響曲第5番、中庸のテンポで楽曲の要素を丹念に抽出する高関さんらしいアプローチ。ヴィオラに小野さん(N響)、コントラバスに星さん(元・読響)などヴェテラン・ゲストを迎えたオケは重心低く充実、通常以上の力を出したのでは。高関さんもいつもより強拍に力が感じられたが、曲の暴力性ゆえだろうか。トリッキーなリズムの処理も確実で、しばしば訪れる刺激的なトゥッティや終楽章の無窮動的な動きからは機械文明や戦争に対する作曲家の冷笑が感じられた。響きの透明性はより欲しいところだが、中身のぎっしり詰まった演奏で満足。
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第44回ティアラこうとう定期演奏会
@ティアラこうとう 大ホール
バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番
プロコフィエフ:交響曲第5番
ヴァイオリン:会田莉凡
管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
コンサートマスター:松野弘明
指揮:高関健
ソロ、室内楽にオーケストラ・・・獅子奮迅の大活躍の会田莉凡さんのバルトークを楽しみに、ティアラこうとうへ。都合が合わずなかなかティアラ定期は聴きに来れないので、かなり久しぶりに訪れた。
そのバルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」は期待以上、聴き応え十分の演奏だった。その若さにしてどこにその要素が、と思わざるを得ない味濃く妖艶な(褒め言葉!)ソロは絶品だ。ハタチ以下の自分が言うのも何だが・・・。民謡収集に余念が無かったバルトークの晩年の境地を感じさせる、緊密な形式を持つ名曲。それでいて融通無碍でどこか浮遊感すらある。
会田さんは第1楽章の野趣あふれる朗唱、第2楽章の羽衣のような弱音と幅広く魅せた。弓圧強くフレーズを弾き切る彼女のスタイルは、バルトーク音楽でいっそう輝く。この曲に強い思い入れがあるという高関さん(彼自身が学生時代試験で弾いたらしい!)とシティ・フィルのサポートも盤石で、20世紀屈指の名曲を見事な水準で堪能した。オーケストラの規模も大きい作品だけに、ソリスト・指揮者・オーケストラのトライアングルが水準高く揃ったことが何より嬉しい。
後半のプロコフィエフの交響曲第5番、中庸のテンポで楽曲の要素を丹念に抽出する高関さんらしいアプローチ。ヴィオラに小野さん(N響)、コントラバスに星さん(元・読響)などヴェテラン・ゲストを迎えたオケは重心低く充実、通常以上の力を出したのでは。高関さんもいつもより強拍に力が感じられたが、曲の暴力性ゆえだろうか。トリッキーなリズムの処理も確実で、しばしば訪れる刺激的なトゥッティや終楽章の無窮動的な動きからは機械文明や戦争に対する作曲家の冷笑が感じられた。響きの透明性はより欲しいところだが、中身のぎっしり詰まった演奏で満足。
February 09, 2016
2016/2/9 バレンボイム/シュターツカペレ・ベルリン モーツァルト、ブルックナー
2016/2/9
東芝グランドコンサート35周年特別企画
ダニエル・バレンボイム指揮 シュターツカペレ・ベルリン~ベルリン国立歌劇場管弦楽団~
<ブルックナー・ツィクルス1>
@サントリーホール 大ホール
モーツァルト: ピアノ協奏曲第27番
ブルックナー:交響曲第1番(リンツ稿)
管弦楽:シュターツカペレ・ベルリン
指揮・ピアノ:ダニエル・バレンボイム
前評判も絶大なバレンボイム×シュターツカペレ・ベルリンのブルックナー・ツィクルス、いよいよサントリーホール公演の幕開けである。既に東京以外で何曲か披露済みの彼ら、気合も十分に「第1番」からスタート。
オーケストラはコントラバスを下手(しもて)に配し、ヴァイオリンを両翼に振り分けた伝統的配置。ピアノは蓋を完全に外してオーケストラと向き合い、バレンボイムが正面客席に背を向ける形となった。なお、本日のトップサイドは有希・マヌエラ・ヤンケ。シュターツカペレ・ドレスデンのコンマスを経て、現在はシュターツカペレ・ベルリンのコンマスの任にあるらしい。
モーツァルト「ピアノ協奏曲第27番」は、柔らかな冒頭の序奏にまず引き込まれるが、この音色の味わい深いこと。管楽器も柔らかく融け合い、曲が進むにつれピアノも加わって三位一体の玲瓏な音楽と化していく。ピアノ協奏曲といえばオーケストラとピアノの駆け引きも醍醐味だが、バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンの成熟した関係からは一切その要素を感じない。あるべき音楽がそこにある、という状態がもたらす圧倒的な充足感ゆえだ。鍵盤から手が離れたかと思えば弦楽器に指示を与え、そしてまた鍵盤へ―「弾き振り」だからこその滑らかな音楽の流れは、一つの完成形ではないかとすら思える。序盤フルートが若干不調だったが、それを補って余りある一体感と幸福感に充ちた音楽だ。
後半のブルックナー「交響曲第1番」では、バレンボイムは登場して軽く答礼を済ませるとすぐに音楽に没入。珍しく楽譜を見ながらの指揮だが、なんのためらいもなく低弦のリズム動機が動き出し、オーケストラ全体に伝播した熱気が各所で容赦なく爆発する。アンサンブルの滑り出しはやや遅かったが、弦楽器をはじめ各奏者の「音楽の呼吸」に対する鋭敏な感覚はかなりのもの。バレンボイムの指揮を先読みするような積極性も歌劇場オーケストラならではの強みだろう。第2楽章のアダージョを経て、荒々しいスケルツォではいよいよこのコンビの凄みが全開。ひた押しに押していくバレンボイムの音楽作りが曲のシンプルさと完璧に合致し、オーケストラの音圧にただ圧倒されるしかない。ヴァーグナー作品を連日上演するオーケストラの実力、面目躍如だ。間髪入れず開始された第4楽章では音楽の熱気がますます増幅。速めのテンポの中で金管のコラールが炸裂し、全曲を一貫する勇壮なリズムが輝かしく鳴り響いて締めくくられた。
ブルックナー1番は完成から24年後の1890年から91年にかけて、全体的な校訂が行われたことでも知られている。バレンボイムは校訂後の版(通称ウィーン稿)に比べやや荒削りな「リンツ稿」を選択したが、ブルックナーの後年の老成を予見したような説得力と、「若気の至り」的なリンツ稿の表情の両方を合わせ持つ演奏だったのではないか。
ようやくナマでバレンボイムを聴いた。凄い凄いと聞いていたけれど、本当に凄い。おもむろにポケットからハンカチを取り出して汗を拭ったり、指揮台後ろのバーもよく握るのだけど、ハーモニーの転換や主題の肉付けなど重要な箇所では絶対にオーケストラに気を発している。瞬間ごとの情報量が実に多い。シュターツカペレ・ベルリンとの関係は流石に成熟しきっており、お互い妥協なく全力で音楽に臨むのが当たり前になっている強みを随所で感じさせられた。オーケストラと指揮者の関係、かくあるべし。
東芝グランドコンサート35周年特別企画
ダニエル・バレンボイム指揮 シュターツカペレ・ベルリン~ベルリン国立歌劇場管弦楽団~
<ブルックナー・ツィクルス1>
@サントリーホール 大ホール
モーツァルト: ピアノ協奏曲第27番
ブルックナー:交響曲第1番(リンツ稿)
管弦楽:シュターツカペレ・ベルリン
指揮・ピアノ:ダニエル・バレンボイム
前評判も絶大なバレンボイム×シュターツカペレ・ベルリンのブルックナー・ツィクルス、いよいよサントリーホール公演の幕開けである。既に東京以外で何曲か披露済みの彼ら、気合も十分に「第1番」からスタート。
オーケストラはコントラバスを下手(しもて)に配し、ヴァイオリンを両翼に振り分けた伝統的配置。ピアノは蓋を完全に外してオーケストラと向き合い、バレンボイムが正面客席に背を向ける形となった。なお、本日のトップサイドは有希・マヌエラ・ヤンケ。シュターツカペレ・ドレスデンのコンマスを経て、現在はシュターツカペレ・ベルリンのコンマスの任にあるらしい。
モーツァルト「ピアノ協奏曲第27番」は、柔らかな冒頭の序奏にまず引き込まれるが、この音色の味わい深いこと。管楽器も柔らかく融け合い、曲が進むにつれピアノも加わって三位一体の玲瓏な音楽と化していく。ピアノ協奏曲といえばオーケストラとピアノの駆け引きも醍醐味だが、バレンボイムとシュターツカペレ・ベルリンの成熟した関係からは一切その要素を感じない。あるべき音楽がそこにある、という状態がもたらす圧倒的な充足感ゆえだ。鍵盤から手が離れたかと思えば弦楽器に指示を与え、そしてまた鍵盤へ―「弾き振り」だからこその滑らかな音楽の流れは、一つの完成形ではないかとすら思える。序盤フルートが若干不調だったが、それを補って余りある一体感と幸福感に充ちた音楽だ。
後半のブルックナー「交響曲第1番」では、バレンボイムは登場して軽く答礼を済ませるとすぐに音楽に没入。珍しく楽譜を見ながらの指揮だが、なんのためらいもなく低弦のリズム動機が動き出し、オーケストラ全体に伝播した熱気が各所で容赦なく爆発する。アンサンブルの滑り出しはやや遅かったが、弦楽器をはじめ各奏者の「音楽の呼吸」に対する鋭敏な感覚はかなりのもの。バレンボイムの指揮を先読みするような積極性も歌劇場オーケストラならではの強みだろう。第2楽章のアダージョを経て、荒々しいスケルツォではいよいよこのコンビの凄みが全開。ひた押しに押していくバレンボイムの音楽作りが曲のシンプルさと完璧に合致し、オーケストラの音圧にただ圧倒されるしかない。ヴァーグナー作品を連日上演するオーケストラの実力、面目躍如だ。間髪入れず開始された第4楽章では音楽の熱気がますます増幅。速めのテンポの中で金管のコラールが炸裂し、全曲を一貫する勇壮なリズムが輝かしく鳴り響いて締めくくられた。
ブルックナー1番は完成から24年後の1890年から91年にかけて、全体的な校訂が行われたことでも知られている。バレンボイムは校訂後の版(通称ウィーン稿)に比べやや荒削りな「リンツ稿」を選択したが、ブルックナーの後年の老成を予見したような説得力と、「若気の至り」的なリンツ稿の表情の両方を合わせ持つ演奏だったのではないか。
ようやくナマでバレンボイムを聴いた。凄い凄いと聞いていたけれど、本当に凄い。おもむろにポケットからハンカチを取り出して汗を拭ったり、指揮台後ろのバーもよく握るのだけど、ハーモニーの転換や主題の肉付けなど重要な箇所では絶対にオーケストラに気を発している。瞬間ごとの情報量が実に多い。シュターツカペレ・ベルリンとの関係は流石に成熟しきっており、お互い妥協なく全力で音楽に臨むのが当たり前になっている強みを随所で感じさせられた。オーケストラと指揮者の関係、かくあるべし。
February 06, 2016
2016/2/6 パーヴォ・ヤルヴィ/N響 マーラー、ブルックナー
2016/2/6
NHK交響楽団 第1829回 定期公演 Aプログラム
@NHKホール
マーラー:歌曲集「亡き子をしのぶ歌」
ブルックナー:交響曲第5番(ノヴァーク版)
バリトン:マティアス・ゲルネ
管弦楽:NHK交響楽団
コンサートマスター:篠崎史紀
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
年末のベートーヴェン「第9」から程なくして首席指揮者・パーヴォ・ヤルヴィの帰還。いつもの通りR. シュトラウス(録音含む)、ドイツ・オーストリア物、北欧・スラヴ物という3プログラムである。今回はN響とは初となるブルックナー、いきなり難物の5番で勝負に出た。
マーラー「亡き子をしのぶ歌」、子供を喪った慟哭を歌うゲルネは深々とした美声がホールのハンデを感じさせない。本来はシューベルトのリートの延長線上にあるマーラーの歌曲、中規模ホールで歌詞の単語一つ一つを味わうのが理想だが、大ホールでの演奏としてある程度調整してくるあたりゲルネは流石だ。彼の声は決して明晰な部類ではなく、濃い陰翳から生まれる味わいが魅力なのだが、それでも空間を大きく使ってニュアンスを伝えようとしていたように感じた。部分的には体の所作も交え雄弁に語る。パーヴォは伴奏の域を超えて細かく表情付けを施したが、木管の突飛な強調などは若干曲の流れを削いだ感がなきにしも非ず。「角笛」ならハマった手法だろうが、やや煩わしく思われた。
ブルックナー「第5番」はパーヴォにとって、フランクフルト放送響とも既に録音しているレパートリー。ブルックナーとマーラーを両方振る指揮者はあまり多くないが、新鮮な見方でスコアを読み解くパーヴォには「ブルックナー指揮者」「マーラー指揮者」といった括り方は無意味かもしれない。彼のマーラーが面白いように、ブルックナーも大変面白かった。中でも峻厳な高峰である「第5番」が、これほど沸き立つような感覚で演奏されるのを聴くのは初めてだった。作曲家の再定義的な演奏とでも言おうか。
具体的には、N響自慢の低弦をやや控える一方でヴィオラ・ヴァイオリン群の攻撃的な対話を全曲で重視しており、ブルックナーが精妙に書いた弦5部の交錯のうち一部にスポットライトが当てられたような特異さを生む。ピラミッド型の造形に聴き慣れている耳にはかなり斬新だった。金管の斉奏も末広がり的に鳴らすのではなく、終始厳格にコントロールされてシャープだ。トゥッティの分厚さで伽藍を築く方向性とは異なるが実に興味深く、N響も熱演で応えていた。第2楽章では情感が柔らかく引き出され、強面な終楽章はコーダに向けて昂ぶりを増す音楽が心地よい。ティンパニの引き締めも理想的だった。
2曲とも、パーヴォの理知的な構築に唸ったというところか。痺れるような感動とか、頭が真っ白になるような感覚とは無縁だが、非常に偏差値の高い演奏であることは疑いようがない。
NHK交響楽団 第1829回 定期公演 Aプログラム
@NHKホール
マーラー:歌曲集「亡き子をしのぶ歌」
ブルックナー:交響曲第5番(ノヴァーク版)
バリトン:マティアス・ゲルネ
管弦楽:NHK交響楽団
コンサートマスター:篠崎史紀
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
年末のベートーヴェン「第9」から程なくして首席指揮者・パーヴォ・ヤルヴィの帰還。いつもの通りR. シュトラウス(録音含む)、ドイツ・オーストリア物、北欧・スラヴ物という3プログラムである。今回はN響とは初となるブルックナー、いきなり難物の5番で勝負に出た。
マーラー「亡き子をしのぶ歌」、子供を喪った慟哭を歌うゲルネは深々とした美声がホールのハンデを感じさせない。本来はシューベルトのリートの延長線上にあるマーラーの歌曲、中規模ホールで歌詞の単語一つ一つを味わうのが理想だが、大ホールでの演奏としてある程度調整してくるあたりゲルネは流石だ。彼の声は決して明晰な部類ではなく、濃い陰翳から生まれる味わいが魅力なのだが、それでも空間を大きく使ってニュアンスを伝えようとしていたように感じた。部分的には体の所作も交え雄弁に語る。パーヴォは伴奏の域を超えて細かく表情付けを施したが、木管の突飛な強調などは若干曲の流れを削いだ感がなきにしも非ず。「角笛」ならハマった手法だろうが、やや煩わしく思われた。
ブルックナー「第5番」はパーヴォにとって、フランクフルト放送響とも既に録音しているレパートリー。ブルックナーとマーラーを両方振る指揮者はあまり多くないが、新鮮な見方でスコアを読み解くパーヴォには「ブルックナー指揮者」「マーラー指揮者」といった括り方は無意味かもしれない。彼のマーラーが面白いように、ブルックナーも大変面白かった。中でも峻厳な高峰である「第5番」が、これほど沸き立つような感覚で演奏されるのを聴くのは初めてだった。作曲家の再定義的な演奏とでも言おうか。
具体的には、N響自慢の低弦をやや控える一方でヴィオラ・ヴァイオリン群の攻撃的な対話を全曲で重視しており、ブルックナーが精妙に書いた弦5部の交錯のうち一部にスポットライトが当てられたような特異さを生む。ピラミッド型の造形に聴き慣れている耳にはかなり斬新だった。金管の斉奏も末広がり的に鳴らすのではなく、終始厳格にコントロールされてシャープだ。トゥッティの分厚さで伽藍を築く方向性とは異なるが実に興味深く、N響も熱演で応えていた。第2楽章では情感が柔らかく引き出され、強面な終楽章はコーダに向けて昂ぶりを増す音楽が心地よい。ティンパニの引き締めも理想的だった。
2曲とも、パーヴォの理知的な構築に唸ったというところか。痺れるような感動とか、頭が真っ白になるような感覚とは無縁だが、非常に偏差値の高い演奏であることは疑いようがない。